マンガでやさしくわかる 傾聴 古宮昇 感想
自戒も込めて皮肉を言いますが、精神科看護師がついかんたんに使ってしまう専門用語TOP3をつけるとしたら、「傾聴」は間違いなく入ると思います。
患者さんの話をうんうんと聞いて、あれこれさらっと返答をして、記録には「傾聴対応する」とか。自戒を込めて書いてます。
看護学校でも「傾聴・共感・受容」は大切ですよ、という言葉はよく聞きました。しかし具体的方法については「そんなの看護師を目指すんだから当然できるでしょ?」的なオーラとオブラートに包まれていたように感じます。(被害念慮)
卒後も傾聴とは「話をきちんと聞くこと」くらいにしか考えていませんでした。技法としても「傾聴的態度、オウム返し、要約」があるんだなあ、と思い、時々試しに使ってみるという程度。しかしながら傾聴の概念や理論をきちんと理解していないと技法は単なる付け焼き刃になってしまいます。手応えのなさにめったに使うことはありませんでした。
恐ろしいことに、看護師が適切に技術や技法を身につけていなくても患者さんの本来持つ強さでなんとかなってしまうんですね。患者さんにおんぶにだっこです。
しかしそれじゃイカンと思い、何かきちんとした本を読みたいなあと探していると、本記事の本に出会いました。
古宮昇先生は大阪経済大学の人間科学部の教授で、教養科目と実習担当をされているようです。さらっと論文を調べてみたところ、研究と言うより実践・講習の人のようですね。スピリチュアル心理学アカデミーというものを主催されているようですが、それについては明るくないので特にここでは語りません。
なお著者のサイトはこちらです。
本著は漫画とは言え、内容はしっかりと基本的な心理から発展まで描かれています。ここで概要を掴んで、次の本に移るなどしても良いと思います。
本著は次の構成で進んでいきます。各章は漫画→本文と内容がわかりやすくまとめられています。
Prologue 傾聴って?
Part 1 「聴いてほしい」人の心のしくみ
Part 2 傾聴の基本
Part 3 傾聴の実践
それぞれの章について感想を述べていきます。
Prologue 傾聴って?
冒頭の漫画で、「耳かたむけ課」に突如任命された主人公が新任市長に言われた言葉が早速刺さります。
「君は話を聴いていなかったよ」/「ただ自分の価値観を押し付けていただけだった」
と。
話を聞くということは、単に言葉を拾うに過ぎません。また場合によっては自分の価値観を伝え、問題解決をすぐに図ろうとしてしまうこともありえます。
それに対し話を聴くということは、言葉に載せられた相手の気持ち、感情も考え、その人となって理解し受容していく事になります。もちろん、自分の価値観を伝えること、すなわち「それはよい」「それはだめ」という価値判断をちょっと横に置いといて聴いていくことが必須となります。
冒頭の漫画では、利用者の話を聞いた後、「それは○○課に行ってください」や「それはルールなので出来ません」等と価値判断をし、仕事を捌いていました。
それは傾聴ではないということです。
では傾聴とはどういうものか。読み進めていきます。
Part 1 「聴いてほしい」人の心のしくみ
オウム返しなど技法をネットで調べ、傾聴にチャレンジするも撃沈。市長に愚痴りまくります。市長はそっと傾聴してくれます。
「市長って私が怒ってもちゃんと聴いてくれるんですね…… 受け止めてもらえると素直に自分をみてまたやる気になりました」
と主人公が傾聴の効果について実感します。
この章で傾聴の技法をやってみたものの失敗した最大の理由は、「聴いてほしい」人の心のしくみが全く理解出来ていなかったからと語られていきます。
人間の心の衝動とは、1)自己実現を求める衝動 2)無条件の愛情を求める衝動 3)変化を恐れ現状維持を求める衝動 4)表現を求める衝動 の4つがあると語られ、それぞれの詳しい内容が解説されていきます。
それら人間の心の衝動を理解し、傾聴していく上で技法は役に立ちます。しかしそこは本質ではありません。本質ではないことを真似して見せてもできないわけです。では傾聴の本質とはなんでしょうか。
傾聴の根底には、人間の本質への信頼があります。
と、本著では述べられていきます。
つい人の話を聞いていてあれこれ言いたくなるのは、「他人を、自分が思う良い方向へ変えなければならない」という自分自身の価値判断が行っていることです。そこには十分な信頼はありません。
聞き手側の持つコントロール欲を手放すことが必要となってきます。
聞き手側のコントロール欲といっても、ああしてやろうこうしてやろうといった悪い気持ちではないです。「ちゃんとルールを守ることは大切なことだ」とか、「約束は守って欲しい」とか「いい母親とはこういう感じだから、伝えてあげよう」とか。そういうその人が持つ価値観です。冒頭の「ただ自分の価値観を押し付けていただけだった」とはそういうことです。
傾聴って、かんたんに「傾聴は大事だよ!」なんて語っていましたが、かなり難しそうな技術ですね。
Part 2 傾聴の基本
冒頭漫画では、共感と同感、共感と同情について語られていきます。(ちょっと長いですが大切なところなので引用させてください。)
「たとえば不幸な話を聴いていると 自分自身も悲しくなり涙が止まらなくなることってあるよね」/「それは相手の痛みが自分の痛みに重なって自分自身の心も一緒に傷つき 痛みを感じてしまうからなんだ」/「こうなってしまうと相手はどんなに話を聴いてもらっても気持ちを切り替えて前に進むのが難しくなる」/「おそらく君自身も気が付かないうちに怒りの感情が根っこに芽生えたのかもしれない」/「もしかしたら自分も過去同じような体験をしていたとか・・・」
傾聴をしていると自分自身の今までの生き様についても振り返る必要が迫られてきます。それこそ、幼かった頃のちょっとした不公平感などが未だに癒やされずに顔を出すこともあります。そうなってくるといわば”話し手に巻き込まれている”ような状態になり、適切な傾聴状態ではなくなってしまいます。
では適切な傾聴ができる状態とはどのようなものなのでしょうか。筆者は次のように語られています。
話し手のことを1人の独立した人間として尊重し、その人の感じていることや考えていること、伝えたいことを、あたかもその人自身のようにひしひしと、ありありと感じて理解するためには、人の痛みや苦しみに共感できると同時に、同感して感情に溺れてしまわない独立した自分自身が必要です。
感情に溺れてしまわない独立した自分自身。おおっ、難しい・・・。
別の例話を用いて筆者は「私は私。あなたはあなた。」を実感できることの大切さを説いています。
これら傾聴の哲学を踏まえた上で、はじめて技法を知ることに意味が出てきます。
本著で紹介されている技法は姿勢、応答(オウム返し)、感情を言葉にして返す、質問、があります。詳しい例題とともに紹介されていますから、このあたりはぜひ本著にあたってください。
ちなみにこのあたりは心理士さんは充分に熟知されていますよね。そう、ロジャーズのクライアント中心療法の考え方です。セラピストなるもの、自己一致の範囲を広げていくことが治療の必須条件です。
Part 3 傾聴の実践
ここまでの章で話に耳を傾けるという方法を解説されていました。
この章では「話さない」というメッセージを傾聴する方法について語られていきます。
「話さない」というメッセージは、何か話せない事情や感情があるのではないかと考え、急くことなく同じ時間・状況を共有することが基本と語られています。
合わせて、傾聴の中に出てくる「質問」にも、単に答えるという方法は不適切だと語られていきます。
傾聴の中で質問をされ、それを答えれば済むという状況は少なく、その質問の裏には様々な感情が秘められています。
なので、「どうすればいいですか?」と放たれた言葉に耳を傾けるとき、「こうすればいいですよ」と答えるのは不適切です。そこには言葉に載せられた思いを聞けていません。
では、どうすればいいのか?・・・詳しいところは本著に譲りますが、共感を持って相手の立場になり、考え、自己不一致を整えていくことが基本になります。
終わりに
「傾聴」とかんたんによく言いますが、めちゃくちゃ難しいですね。情報を整理すると、
傾聴とは、人間の心の衝動を理解した上で、
1)肯定的な態度で相手に興味・関心を持つ
2)話の内容を自分のことのように感じ、共感する
3)共感できないところやわからないところは質問し、納得(自己一致)していく
という技術になります。
そして基本的な態度として
ア)自分の価値観を押し付けない、決めつけない
イ)技法に頼らない
ウ)同感、同情していないか自分の感情を観察し続ける
ことが必要とされます。これ、やっぱり「傾聴・共感・受容が大事!」の一言で片付けられるものではないです。じっくり学び、グループワークやディスカッションを受けていく必要がある気がします。んー、そういう経験がなかったことが残念。
その分、本著をはじめとした書籍で勉強し、今からでも技術を身につけていきたいと強く感じました。漫画なので場面の想像がしやすく、大変おすすめです。
物語としてのケア -ナラティブ・アプローチの世界へ(シリーズケアをひらく) 野口裕二 感想
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 野口裕二
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2002/06/01
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 37回
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発売が2002年と、もう15年以上前の本になるんですが、いまだに学びが多く、良い本でした。
よく、「ナラティブ」なんて語られます。NBMとか。EBMの対になる言葉ですね。
今現在、医療に構造主義の概念は入って久しいですが、本著はその走りになるものだったのかなと思います。
ナラティブとは、語りや物語を指す言葉で、NBMはその語りや物語をもとに治療を展開していく姿勢のことです。
EBMの行うことが、原因を見つけ出し、それを取り除いたり整えたりすること(医学モデル・生物モデル)とすると、NBMは語りから物語を導き出し、真に求められていることは何か考えていく姿勢になると思います。
外科や内科ではナラティブの概念は使いにくいような気がしますが、慢性期の病気(例えば糖尿病など)なんかでは、ナラティブは使いやすそうですね。
精神科ではばっちり合致するもので、非常に求められている概念と思います。
ナラティブという概念の十分な説明と、そこから展開する様々な治療の可能性を提示していきます。問題の外在化、無知という姿勢、リフレクティング・チーム。もしかすると、EBMに対しNBMは中動態的なのかもしれません。
本著は次の通り展開していきます。
1.言葉・物語・ケア
2.物語としての自己
3.物語としての病い
4.外在化とオルタナティブ・ストーリー
5.「無知」のアプローチ
6.リフレクティング・チーム
7.三つの方法
8.新しい専門性
9.ナラティヴ・コミュニティ
10.物語としてのケア
1.2.3章で言葉・語り・物語の定義をし、4.5.6章でナラティブ・アプローチの方向性の実際の紹介、7.8.9.10章でナラティブをさらに深く掘り進めて行っています。話の展開が順を経ており、構造主義的な難しい題材にもかかわらず、読みやすく良かったです。
1.2.3章について
この3章ではそもそものナラティブの定義をしていきます。
自分を語る為には、物語が必要となっていきます。自分を定義するものは物語です。言葉を使い、自分を語ることによってはじめて自分が定義されていきます。語る行為をするまでは自分についてはっきりとした定義はありません。語りを通して、自分が得られていく、そういう概念がナラティブです。
また、人と人とが出会う場所は語りと語りが出会う場でもあると展開していきます。ケアする「自分」とケアされる「自分」が出会う場所。語りと語りが出会うことによって化学反応的に物事は起こります。
臨床の場は、「言葉」「語り」「物語」によって成り立っている。それは、ケアする者とされる者それぞれの「語り」が紡ぎ出される場であり、同時に、それぞれの「物語」が出会う場である。臨床の場は、ナラティヴに満ちている。したがって、ナラティヴこそが手段に据えられなければならない。援助者は、患者というひとりの人生の物語にどうかかわることができるのか、そして、援助者自身、どのようなケアの物語を生きようとするのか、これらが問われなければならない。ケアの理論は、ナラティヴの理論によって基礎づけられなくてはならないのである。
行為以前にナラティブは存在する、という事です。ナラティブに対しどのような態度でいるにせよ、そのことは存在します。ナラティブとは、積極的に行動する事ではなく、現象そのものを指します。そのことを認識しているか、そうでないかでその結果は大きく変わってきます。
ナラティブを自覚して関わる事で、語りの重要性やその人の人生という個別性に自然と関わることに繋がっていきます。精神科は疾患に対して仮説の科学です。ナラティブでいることは必然的に求められている事だと思います。
4.5.6章について
この3章は具体例を多く出し、ナラティブのもたらす効果を実証しています。
「外在化」「無知の姿勢」「リフレクティング・チーム」と章は展開していきますので、そのままの流れで感想を述べていきます。
「外在化」
この章では遺糞症の6歳の男の子ニックを例に問題の外在化という手法について述べられています。結論から先に言うと、「問題」そのものに対して「スニーキー・プー」と名前を付け、ニックの中に問題があるのではなく、ニックの外に問題がある事にして物事をとらえていき、見事突破口を開くことが出来ました。
問題の内在化と外在化と言うとどういうことかと言うと、問題の内在化は自分の中に何か問題がないか、やれることは無いかと考える事。問題の外在化は誰かのせいや何かのせいにするという事です。単に他人のせいにするというのならあまり治療的ではないのですが、そこに追加で問題そのものをそのまま取り扱う、と言うことをすることで治療的な”他人のせい”、=問題の外在化に成功します。
原因があるから、結果がある。問題の原因を探し、問題ごとを解決しようとする、その因果関係から脱する事、それがナラティブの力です。
ナラティブの力を借りれば、原因を突き止めることなく、問題そのものに直接かかわることが出来るようになります。従来の科学からの飛躍にたどり着くことが出来ます。これって、すごい力だと思いませんか。
「無知の姿勢」
対話をすることなく、相手を知ることはできません。どんなにプロだとしても、相手の事については全くの無知であり、対話をするほか知るすべはありません。そして、話していくうちについつい決め付けをしてしまう。専門知識があるという驕りによって。その辺りが痛烈に批判され、あくまでもナラティブの態度でいる必要性について述べられている一説がありましたので、少し長いですがそのまま引用します。
ここで、「無知の姿勢」というキーワードが登場する。「無知not-knowing」とは次のようなことを意味する。それは、「セラピストの旺盛で純粋な好奇心がそのふるまいから伝わってくるような態度ないしスタンス」のことであり、「話されたことについてもっと深く知りたいという欲求」をあらわすもので、つねにクライエントに「教えてもらう」立場の事である。
(中略)セラピストは何について「無知」なのかといえば、「クライエントの生きる世界」について無知なのである。だからこそ、「好奇心」に導かれ、「もっと深く知りたい」と思い、「教えてもらう」という姿勢になる。
これはたしかに事実であろう。セラピストはクライエントと最初に出会ったとき、クライエントについてたしかに何も知らない。しかし、しばらくするうちに、しだいに「わかった気」になってくる。「わかった気」にさせているのは、セラピストの持つ専門知識や理論である。そして、「問題」の所在が突き止められ、その解決策が提示される。
しかし、これは、果たして「クライエントの生きる世界」をわかったことになるのだろうか。それは単に、「クライエントの生きる世界」を専門用語の世界に「翻訳」しただけではないのか。むしろ、そのような「翻訳」によって実は、「クライエントの生きる世界」から遠ざかってしまったのではないだろうか。
このように考えるとき、「無知の姿勢」のもつ意味がより明白になってくる。それは、「クライエントの生きる世界」を、専門家が「問題」だと思っている世界に翻訳しないだけでなく、いかなる「問題」にも翻訳しないための手段だということである。専門知は「問題」を特定しそれを解決するためにつくられている。だから、それを使うことはできないのである。
本当にその通りだと思います。つい私たちは問題を挙げてしまいます。以前記事にしました萱間先生の本の冒頭でも、「看護師の自動翻訳装置」と称して同じ現象について記載があります。その事実についてしっかり認識しなければなりません。
ナラティブな態度であり続けることはそのままストレングスに着目することにも通じるといえます。勝手な判断はせず、あくまでも本人と相談をし、対話を繰り返していくこと。このことが大切と断言できます。
この章の「無知の姿勢」は決して忘れてはいけないことです。専門知はいつでも常に使うものではありません。ナラティブという方法も身につけ、選択肢を増やすことが幅の広い看護の提供につながることでしょう。
「リフレクティング・チーム」
患者の前で喋る言葉と、医療者同士で喋る言葉に違いが出ている事実を指摘。「表と裏」とまで表現されています。これは、恥ずかしいながら事実だと感じています。本の中ではそれらを「家族に失礼な表現」と表されており、具体例として「こんな口うるさい母親の家庭に生まれなくて僕はよかった」とか、「あんな頑固な男との結婚生活っていったんどんなだろうか」といった言葉がかつては飛びかっていた、と表現されています。表現の差こそあれ、これは残念ながらどこの現場でも起こっていることでしょう。
この章のリフレクティング・チームとは、そういった医療者と患者の垣根を取り外し、一緒に治療参画するという、今では当たり前に近いことの提唱です。
いくつかの実践例が記載されており、その効果として「治療者の断定を避けることが出来る」「一時的にせよ当事者から降りることが出来る」「メタ・ポジションの獲得」が示されています。治療者の断定とは、前出の通り「問題」を勝手に生み出すことであり、リフレクティング・チームによりそれを避けることが出来たとされています。「当事者から降りることが出来る」とは、あくまでも治療対象者という一元的な関係性から一度脱し、共に「問題」そのものについてどうするか医療者と議論をすることが出来るという、関係の変化そのものを指しています。そして「メタ・ポジションの獲得」とは、「問題」そのものをどうするか考えることそのものを指しています。
一緒に患者さんと治療についてどうするか話し合う、と今ではよく言われていますが、ナラティブの原則に従って行えば、さらに効果的にこれが行えます。
「あなたの問題をこれからどうやって解決しようか」から、「一緒に”幻聴さん”とどうやって付き合うか話し合おう」のほうが、ナラティブで建設的だと思いませんか。
7.8.9.10章について
最後の4章では今までの章の振り返りを行い、ナラティブについて再度考察を深めています。また、医療者の専門性とはどういったものかの再検討にも着手しています。
自然とナラティブである空間は、例えば断酒会であったりべてるの家であったりと、既に存在しています。そこでは「言いっぱなし」でOKという受容の世界があり、その存在自体が治療的です。
ケアをする/されるという関係、ケア/キュア、客観的/主観的、というような2項対立がここでは挙げられています。特に、生物モデル/構造主義モデルという対立がここで生まれています。
さて、この2項対立ですが、当ブログの過去記事で既に対立に対する回答を挙げていたのかなと思います。「中動態」です。
これは私の解釈ですが、ナラティブであるということは、何かと対立するということではありません。意思と責任からの解脱だと考えています。
ナラティブという概念を理解し、ナラティブの態度をもって患者さんと関われば、自然と対話が濃厚になります。それはケアする/されるという対立はなくなり、共同参画という形になります。そしてその提供されているものはケア/キュアではなく、ナラティブそのものになります。そこには意思/責任という存在よりも、現象そのものの存在だけであり、中動態的な能動/中動の軸から考えれば相当に能動的になります。そこに強制性はなく、主体的な治療参画(という言葉も意思/責任のある従来の受動/能動的なんですが)になって行きます。
端的に言えば、双方がナラティブになれば、その人の人生の主軸をもう一度獲得することが出来る。自分の人生を再び歩むことが出来るということだと私は考えています。
ひとはそれぞれ自分の物語のなかで相手と出会っている。そして、その二つの物語の出会いが、2人の関係をかたちづくり、ケアの具体的なかたちをつくっている。二つの物語はかならず相互に影響しあう関係にある。ケアによって患者の物語だけが変わるということはありえない。患者の物語が変わるのだとすれば、援助者の物語も変わる。
したがって、わたしたちは、患者の物語に配慮するのと同様の重さで、援助者の物語に配慮しなくてはならない。「物語としてのケア」に目を向けなければならない。援助者はこれまでどのようなケアの物語を生きてきたのか、そしていま、どのようなケアの物語を生きようとしているのか、ナラティブ・アプローチはこのことを問いかけている。
私たちは、医療者ですが、客観的存在には生きていません。私たちも人であり、主観的存在です。絶対的な客観は存在できません。そのことに自覚をし、ナラティブであること。これが求められています。
ナラティブになるということは、自分の看護観について再考を重ねていくということです。どんなことをしたいのでしょうか、何を求めているのでしょうか。さて、どんな看護を展開していきましょうか。
精神科看護では特に、ナラティブな態度でいることは自然と出来ると思います。どんどん語り合いましょう。面白い本でした。
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 野口裕二
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2002/06/01
- メディア: 単行本
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