精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護に関する自分なりの覚書

子どものための精神医学 滝川一廣 感想 その2

 

sakatie.hatenablog.com

 前回記事の続きです。

 

第6章までで、こころについての考え方、精神医学として科学的な態度、診断について、そしてピアジェフロイトによって精神発達のものさしを知ることができました。

これから精神発達についての理解と、今私達が生きている社会について、そして発達障害へと著者は語りを進めていきます。

 

・第7章

ここでは前章までで身につけたものさしを使って、精神発達の道筋を学んでいきます。

前出の図の通り、関係の発達と認識の発達のちからに引っ張られ、精神発達は進んでいきます。これは障害の有無関係のないことです。

精神発達という視点からとらえるかぎり、定型発達と発達障害との間で発達の<構造>に質的なちがいはない。どちらも同じ道筋を進んでいく。ただ、発達障害のほうがその足どりがゆっくりで、社会のマジョリティが達している平均的な発達水準に届かないという相対差があるにすぎない。しかし、その相対差が発達の<内容>にちがいをもたらし、そのちがいが実社会を生きるうえでしばしば大きな障壁としてあらわれざるをえない。その困難さを指して、私たちは「障害handicap」と呼んでいるのである。

その障壁に対する努力、もがきが異常的な行動に見えると解説されています。そしてまた、発達障害だからといえども、精神発達に終わり(完成)はないと考え方はあると紹介されています。つまり、幾多の人生課題に出会い、様々な経験や努力を重ねてそれを乗り越えていくことは、障害があってもいつかは行うことということです。

 

またこの精神発達は速い子もいれば遅い子もいます。小児看護や母性看護でも学んだ通りと思いますが、ある程度のぶれは生じます。同じ1歳半でも、指差しを得意とする子もいれば興味を示さない子もいます。イチロク健診で要観察と言われたからといって、必ずその子が何か問題あるとは限らないということです。あんがい大きくなれば均されていくことが多いです。

ただ、精神発達に終わり(完成)はないんですが、その人その人個別に、ある一定水準に達すると成長の曲線が緩やかになり、水平に近づいていきます。その達成値がやはり、発達障害では平均に届かないレベルで「完成体」となることが障害の所以となります。あくまでも発達に遅れた未熟な存在というわけではなく、そうであるという成熟した姿と捉えます。ですから、伸びしろがあるんだから怠けるな!ではない。今のあなたで工夫できることはなんだろう?です。

 

ではこの精神発達を推し進める力とは?・・・その理解をすすめるのが先程学んだピアジェフロイトの発達理論のものさしです。ピアジェが「シェマを獲得していくこと」、フロイトが「リビドー」と名づけたこと、この2つが精神発達を推し進める力だと、解説されています。

そして、この精神発達を推し進める力を知能分布を手がかりに実証したのがペンローズであると紹介されています。

ペンローズはおおよそ身長、体重、足の速さなどと同じように知能も正規分布をなすと仮設を立て調査を行いました。その結果、やはり知能もほぼ正規分布をなすことが明らかになりました。ただ、IQ100を超えるものの分布図はきれいな正規分布を描いていましたが、IQ100以下のものの裾が若干上がっていることが結果として導き出されました。

なぜ両方が正規分布を描かなかったのでしょうか?・・・病理群の存在が正常偏倚を乱していました。

病理群とは、後に語られますが、すなわち交通事故などの外傷、経済的困難、被虐待児、不備な養育環境で育った子などの特異的な子どもらを指します。

なお、ペンローズの研究に発展し、関係の発達でも正規分布を描いているかどうかを、バロン=コーエン(2001)や鷲見聡氏(2006,2015)が調査を行っています。いずれも正規分布を描いていることが明らかとなっています。すなわち、一定割合のASDレベルの精神発達者は自然の個体差としてかならずいることが明らかになっています。

自閉症AQ指数について:バロン=コーエン(2001)http://docs.autismresearchcentre.com/papers/2001_BCetal_AQ.pdf

 上記日本語版:自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版の標準化:若林明雄(2004)自閉症スペクトラム指数 (AQ) 日本語版の標準化

 

・第8章

精神発達には個体差があることがわかりました。では、精神発達によって得られる社会化ってどんな感じになっていくのか?ということが第8章では明らかになっていきます。

生まれてすぐでは、まどろみとほほえみ、啼泣とマザリングで育っていきます。ふと生理的な笑顔を赤ちゃんが浮かべ、親が愛情を持って返す。不快を感じて泣き、親が愛情を持って手当する。

マザリングとアタッチメントによって感覚の共有をしていき、感じていることは自分ひとりでないことを感覚で知っていく。

そして首がすわって探索行動へ。あちこち見てみたり、試してみたり。少し親から離れてみて、すぐ戻ってみてという安心の共有と探索。

バブリング(喃語)を出して感情と情動の共有をし、同じものをみて親と同じく感覚や関心の共有をする。

いただきます!ごめんなさい、など挨拶等の模倣と行為の共有、トイレトレーニングなどのしつけを通して意志の発達。

言葉のはじまり。二語文、三語文と言葉によって様々に共有・共同していくことを獲得していきます。それによって認識の社会化、関係の社会化へと成長していく道筋を描いていきます。

これらの精神発達について、第8章では鮮やかに描かれています。これは、見事。小児や母性の実習の時にこの文章を見て学べてたら、もう少し感じ方が違ったろうなあ・・・。この章は卓越した描かれ方をされているので、ぜひ、私の言葉ではなく実際に手にとって読んでほしい部分です。

あえて一つ引用するなら、言葉の構造での指示性(認識)と表出性(関係)の部分でしょうか。

まず、言語とはどんな構造をしているかを考えておきたい。情報伝達の信号系としてのコトバなら、ミツバチでもイルカでももっている。しかし、人間の言葉はたんなる信号ではなく、世界をとらえ分けるための意味(概念)や約束(規範)の体系をなしている。私たちがものごとを認知的にではなく認識的にとらえるのは、この人間固有の言語のはたらきゆえである。この言語のはたらきを、言語の「指示性」と呼ぶ。「これは○○です」など、対象を指し示す(あるいは認識する)機能である。

それと同時に人間の言葉は相互交流のチャンネルであり、私たちは言葉によって体験を共有しあい、「関係」をもちあっている。この場合、たんに情報を伝えあうのではなく、何よりも情動を分かちあうはたらきを言葉は備えている。このはたらきを言語の「表出性」と呼ぶ。「おやまあ!」など情動を表出する機能で、情動とはひと同士のかかわりのなかでたえず生起し、またひと同士のかかわりを動かす大きな力となっている。

 言葉とは2つの意味がはらんでいるということです。認識の発達が優れたアスペルガー領域ですと言葉が四角いのはそういった指示性が高まっているからであり、あわせて表出性が低いゆえに共感が難しい、ということになります。言葉の綾や比喩もまた、表出性の読み取りの問題になります。障害のある人はなぜ読み取れないのか、またどうすればいいのか。

この段階での情緒的な関わりによって心のベースキャンプが親とともに築かれて行きます。精神発達は親と、そして社会との共有によって育まれていきます。

 

・第9章

そしてここから、発達障害とはなにか、今までの前提を踏まえて探っていきます。次章の発達障害における体験世界との2章だけで100ページ近く割かれて解説されていきます。本著の最も美味しい部分です。

 本著では発達障害を次のように定義しています。

「なんらかの精神発達のおくれをもち、それが生きにくさをもたらしているもの。」

そして前出のグラフの通り、関係の発達、認識の発達が遅れているものを全体的な遅れとし、更にその中の一部が遅れているものを一部の遅れと表現し、LDやADHDなどの網羅をしています。また、グラフの0の時点から精神発達はするものの、そのおくれや完成体の場所の違いで発達障害は説明できると明確に表現されています。

 

社会の近代化につれ、全国民が学校での教育を受けることが進められていきます。それに乗っかれないものが出現してきて、特にMRが顕著でした。そこからピネル、アヴァロンの野生児に取り組んだイタール、セガン、モンテッソーリと教育的・療育的な取り組みの礎ができていきます。「治す」ことはできなくても「育む」ことはできるのでは。それはMRだけに限らず、自閉症児にも支援は広がっていきます。

自閉症といえばカナーとアスペルガーが研究者として有名ですが、特にカナーの診た自閉症児の家族には知的エキスパートとして成功した人の割合が極めて高かったため、児だけでなく親にも注目が当たるようになります。ほか、ラター、ホブソン、バロン=コーエンと様々な研究者が論を展開していくさまが描かれていきます。

その中でアスペルガーは、知的な遅れはなく対人関係や社会行動の独特なアンバランスだけが目立つ自閉症のグループを見出し、これを疾患や障害ではなく、一種の個性と考えた。英米では1981年頃ウィングがこの説を広めていき、やっと現在に近い考え方に展開されていくことになります。

 

余談ですが、このあたりの歴史はTEDのある動画に詳しく解説されています。

スティーヴ・シルバーマンの忘れられていた自閉症の歴史です。15分弱で歴史がうまくまとめられていて、興味深く見ることができます。合わせて、よければどうぞ。

www.ted.com

・第10章

 ここではさらにASDの体験世界・固有の世界・個別性に迫っていきます。今までの部分はすべて外から観察した行動の特徴であり、教科書や診断マニュアル的である。私たちは行動を生きているわけではない。本人の内側の「体験」を知ることが本人を理解することにつながると述べています。

認識の発達におくれがあれば、自分にはよくわからない世界のなかにおかれる。わけのわからない世界で生きていかなければならないということに。

関係の発達におくれがあれば、人と支え合う力がよく育たず世界を一人で受け止めていかないといけません。分け合うことができず、孤独の世界に生きていくことに。

言葉で呼び分けられることの意味として、認知が認識に発展することによって次のような効果があると述べられています。

1)個体内部だけでの体感経験だったものが、ほかの人との間でコミュニカティブに共有できる体験となる。

2)自分に生じている感覚を、言葉によって対象化して客観視できるようになる。

3)ただの生理的な感覚ではなく、それが意味性をもった体験となる。

これをまず認識の発達におくれがある子で考えると、1)感覚の共有ができず自分一人で孤独に対することになり、2)体験を明確に捉えたり処理できず、3)起こっている意味もわからず、感覚刺激に翻弄される形となる。

またこれを関係の発達で考えると、1)感覚の共有感に乏しく社会的な共同性を土台と出来ず、2)自ら孤軍奮闘して獲得した独自の捉え方をし、3)意味の捉え方を一元的であったり状況による応用ができない形になったりする、となると思います。

だから、関係の発達に遅れがあると認知された物事に対する社会的なシグナルをうまく取捨選択することができず、例えばバス停の風景を見ても、その風景の中にある鉄柱の錆模様や通風口の格子目をフォーカスしてみてしまい気持ち悪くなる、といったことが起こり得ると言われています。ほかの角度からいえば、カクテルパーティー効果がうまく働かない状態とも言えるのかもしれません。

 

・第11章

さて、体験世界についてはわかりました。ではどうやって支援していくか?この章では支援について語られていきます。

ここまで読み進めていけば自然とわかってくることですが、ASDにマスターキーはありません。これで解決!といっただれにでも通じる普遍的な答えがないんです。なぜなら、一人ひとり人間は精神発達に違いがあるからで、ASDと診断されたからといってその個別性に違いはないからです。だから、その人ひとりひとりの困り事や精神発達の段階を丹念に共有し、理解し、個別的な支援が必要になってきます。

そう言ってしまうと、なんとも、手の施しようがないように感じてしまいますが・・・。つまるところ、今まで挙げていた発達のものさしをもう一度使い、どの段階でどのように躓いてしまっているか一から再点検することが解決の糸口を見出す方法のひとつなんじゃないかなと思うんです。

この人は三者関係の築き方に躓いている。二者間の関係を丁寧にして精神的安定を図ろう、とかこの人は言葉の指示性と表出性についての理解ができていない。丁寧に社会化していこう、とか、そういう形の支援が本質になるんじゃないかなと思います。

 

さて。第4章での感想のところに「障害とするかどうかは社会によって変動します。」と軽く書いていました。その社会とは、今、どんなものなんでしょうか?

現在ASDの診断は増え続けています。その理由はTEDの動画にもある通り、診断の範囲が広がったためです。さらに、日本でも産業構造の変化が後押しをしています。

戦後の日本は第一次産業で働く人が39.8%の第一位でしたが、2015年現在3.6%だけです。その代わり第三次産業が現在70.0%と圧倒的割合で第一位になっています。

それにより「自然」と「もの」を相手にしていた時代から、「ひと」相手の仕事に価値観はシフトしていきます。自ずから、私たち社会の価値観も第三次産業の価値観に影響され引っ張られていきます。

第三次産業は、ひとに(ひとの欲望に)はたらきかけて消費を生み出す労働である。そのためひとが何を望むか(望まないか)を敏感に察したり、ひとの欲求や欲望をたくみに引き出したり、ひとに好感情や心地よいサービス感を与えたり、不快感を与えぬよう気働きするなど、きわめてサイコロジカルな対人能力が必要とされる。

そこでは「生産性」ではなく、そのような性質の「社会性」こそが労働に求められ、これが最大価値とされる。自閉症スペクトラム系の人たちがもっとも不得手なところだろう。

まさにその通りだと思います。そこから、「仕事さえできればよし」が許されないようになります。「社会性」のあるなしが人間評価の基準と化すようになっていきます。しかもその社会性は、日本ではちょっと独特だと著者は脚注をつけています。

ただし、ここで求められる「社会性」とは、対人配慮性とか対人協調性というニュアンスが強く、それに比して公共性(パブリックな意識)という色合いは薄い。まわりのひと、直接かかわる人との関係のなかで相手をおもんばかり、対人常識をわきまえ、迷惑をかけたり不快な思いをさせず、仲間の間がうまく回るようにこころをはたらかせるのが、ここでの「社会性」である。その意味で、(たしかに高い対人能力ではあっても)ごく狭い関係世界内だけでの「社会性」というべきかもしれない。友人・知人・同僚など具体的な他者の外にある抽象的な他者にまで視野がひろがることによって、「公共性」を帯びた社会性がもたらされるが、そのひろがりには欠けている。

と辛辣に語っています。あえて何故ここでこの脚注をつけているのか。それは、おそらくアスペルガー領域のASDの人が捉える本質的な「社会性」とは違うんだよ、という指摘なのじゃないかなと思っています。アスペルガー領域の彼らは、規律の応用的な拡大解釈が苦手ですから。

 

この社会の価値観の変化は子どもたちにも影響を与えます。かつて昔は士農工商で子どもが就ける仕事は固定化されていましたが、近代化により自由になります。そこで立身出世を目指し、勤勉に励み学歴を得て社会的地位を高めることを目指していた(またある程度その努力は功を奏していた)時代ではなくなりました。70年代初頭まではこどもたちの間でも勉強をまじめにするのはよいことだという価値観は自明なものとして共有されていた。しかし現在、価値観は「社会性」にシフトし、勤勉であることだけに価値はなくなりました。テレビのタレントのような「面白いことを周りの様子を察し、面白いタイミングで」ということに価値観が置かれ、変化していきます。

ASDの子どもたちにはその価値観と行動には不得手で、ついていけません。学級内で異質化してしまいます。子どもは異質を見つけるのが得意ですから、そこから、いじめに発展していくことは自明の理でしょう。

 

 ・第12章

部分的な発達の遅れにフォーカスを当て、第11章と近いことを再度解説されています。LDとADHDについて、詳しく載っています。繰り返しの部分もあるので感想としては省略します。ADDについては栗原類の本が、当事者目線と母親目線の2つがすごくいい塩梅で書いてありますので、よければ参照してください。

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・第13章

13章では子育てをめぐる問題として親と、その周りの社会についての解説が鋭く光ります。その中で子育て困難の第一グループ、第二グループとふたつに分けて考えを提示していきます。そしてそれを14章、15章と展開していく流れとなっていきます。

 

子育て困難の第一グループとは、子育てが個人的・私的なものに変化したことによる子育ての密室化、社会化の難しさがその要因の例としてあげられています。

子育て困難の第二グループとは、社会全体の子育てのレベルが上がったことによって、その子育てのレベルについていけない親たちの子育てになります。すなわち、現代水準から言えば「不備な子育て」や経済困難、家族間の不和、疾病、子育ての不得手さがその要因の例としてあげられています。

 

 さてそのような子育て困難のグループは、どのような社会変化によってもたらされたのでしょうか。

端的に伝えると、かつての「子育ては地域でするもの、拾い子はよく育つ」といった価値観が完全崩壊し、「子育ての責任はすべて親にある。その子どもの成長と将来は全くの自由であり、選択の自由は保証されている。ただしその責任は家族がもつものとする。」というような変化であると、歴史に沿って説明されていきます。この章めちゃくちゃ良いので、ぜひほんと、手にとって読んでみてください。大学の授業ばりにためになります。

そして、もう一つ。貧困が解決し、70年台をすぎる頃から「一億総中流社会」という意識が生まれ、子育てにかかるコストはどんどん上がっていきます。それについていけない、貧困の家庭も残念ながらあるのが事実。実はそういった家庭が、子育て困難の第二のグループに属しており、児童虐待に発展するリスクや犯罪リスクが高くなってしまうのが、疫学統計の結果。経済状況の解消がカンフル剤になるのですが、十分な支援がたどり着いてないのも現状。難しい問題です。

 

・第14章

 子育て困難の第一グループについてです。子育てが個人的・私的なものに変化したことによる子育ての密室化、社会化の難しさがその要因の例としてあげられていました。

この第一グループにより導き出される障害が、家庭内暴力~引きこもり、摂食障害、と顕著化されやすいと語られています。

何故密室化されるのか。家族間の葛藤がデリケートになっていったからと筆者は述べています。

親が子に願う(求める)もの、子どもが親に願う(求める)ものとの間で微妙な齟齬や摩擦が生じ、関係の濃さのなかでそれが煮つまるのである。もちろん、家族間に葛藤がまったく起きないなんてことはありえないし、子どもの成長とともに親子間に対立が生じるのはあたり前。その葛藤や対立こそが、成長の糧である。

問題は、それらの葛藤を葛藤として、対立を対立として、ときには衝突しあい波風も立てつつ子どもが成長の糧としていくことが、濃くなったぶんデリケートになった現代家族の心理関係ではむずかしくなったことである。親密的で心理的距離も近いのに(近いゆえに)、こころをオープンに開きあったり、ぶつけあうことが、かえってできなくなっている面がある(距離が近いゆえに疎隔するという現代家族のパラドックス

(中略)個人化、「私」化した子育ては家族間の親密さを強く育む反面、共同社会とのつながりの薄さともあいまって、子どもたちに社会的な対人能力、社会的な状況でのトラブルや葛藤に対処する力を育むことをむずかしくした。近隣共同体が消滅したあとは、子どもに社会的な力を育む役割は「学校」がほとんど全面的に引き受けるようになった。しかし、それには家族での子育てと学校での教育とのシンクロナイズが必要だけれども、そこもうまくいきにくくなっている。

と。まさに真理と思います。その葛藤の結果、子どもが行う対処行動はひきこもり。摂食障害。抑圧という方法がなされなくなった今の時代、子どもは問題に対して回避行動をとりがちです。学校や家族の葛藤で引きこもり、引きこもることで学校や家族との葛藤の対処能力を得る機会を失っていく。真綿で首を絞めるがごとく、じわじわと障害の溝が深まっていきます・・・。

 

・第15章

 子育て困難の第二グループについてです。社会全体の子育てのレベルが上がったことによって、その子育てのレベルについていけない親たちの子育てになります。

第一グループでは問題が抽象的で親子・社会と子との相関的な絡みでしたが、第二グループは具体的でわかりやすいです。

すなわち、1)貧困、2)家族間の不和(離婚など)、3)疾病(親)、4)子供の障害、5)子育ての不得手さ(親もASD的)です。具体的でわかりやすい問題ですが、その解決はものすごく・・・難しい。

解説は多く語らずとも、伝わったと思います。そしてこの問題は世代を超えて引き継がれます。この第二グループには社会全体の支援が必要なのは言うまでもありません。

そしてこの章では被虐待児の特異な心理的な問題と行動があります。他者への(有意識か無意識かはわかりませんが)操作的な態度、ほとんど無意識の試し行為、拙い愛情希求、はっきりとした攻撃など・・・。覚醒水準の上下による障害についても語られています。さらに、被虐待児なうえにASDの特徴を兼ねていれば・・・。問題は複雑化していきます。原因はシンプルなんですが。

 

・第16章

最後に思春期について。この章は学校という社会化の話やおとなという心理的・身体的な葛藤、モラトリアム期についての話になります。ほとんどテーマは学校の部分がメインで、いじめなどについての記載です。今までの章を把握していれば、読むに易い部分です。

 

以上。感想その2でも、9000字くらいでした。合わせて15000字ですね。長文すぎて申し訳ありません。少しでも興味が出た方は、ぜひ。おそらく「看護のための精神医学」とならんで古典とされ、読み継がれていく一冊になることでしょう。

 

子どものための精神医学

子どものための精神医学

 

 

子どものための精神医学 滝川一廣 感想 その1

 

子どものための精神医学

子どものための精神医学

 

発売日すぐに買って、日々手を出して、やっと読み終わりました。ちょうど1ヶ月位かかりました。第2刷も決定したそうですね。大人気です。

内容が難しくて時間がかかったのではなくて、内容ひとつひとつが腑に落ちて考えを巡らせながら読んでいたため時間がかかりました。それくらい学びの深まりがある良著でした。

子どものための、とは銘打たれていますが、児童精神・思春期精神の領域以外の人もぜひ読んで下さい。特に発達障害の方々に対する手応え感が格段に変わると思います。また、個人的には育児書としても読んでもらえたら親としての軸がぶれないで済むような気もします。ほかにも、学校の先生(特に小中学校)にも読んでもらえたら、支援の理解につながるんじゃないかなと思います。

今まで「精神科の本って何読めばいいの?」と言われたら中井久夫先生の「看護のための精神医学」か春日武彦先生の「援助者必携 はじめての精神科」を薦めていましたが、発達障害や思春期関係で決定版となるような著書は寡聞にして知らず、おすすめできませんでした。これからは本著を「発達障害ならこれだよ」と合わせて薦めるようになると思います。

ちなみにまだ紹介してませんでしたが、中井久夫先生の「看護のための精神医学」は必読だと思います。また紹介しますね。

看護のための精神医学 第2版

看護のための精神医学 第2版

 

 

 本著の構成や内容についてくわしくはアマゾンに載っているので見てもらえればいいのかなと思いますので省略します。本著は「素手で読める児童精神医学の基本書」と銘打たれており、また上記中井久夫医師より「あの本(注釈:看護のための精神医学)には子どものことが書いていない。そこを君に」と伝えられ、書き上げられています。そういった使命をもって世に出された本、ということなんです。

今回は各章に分けて感想を述べていこうと思います。

 

・第1章

第1章では、こころをどうとらえるかについて述べられており、(素手で読める本なのでそこから丁寧に書いてあります)精神医学にとってこころは取り扱わず、脳の障害と捉え、客体的な物質として考える「生物主義」という立場に立っていると明示します。しかしながらそれは科学であり、たどり着かない範囲があるのが事実。哲学では「間主観性」があり科学ではたどり着かない領域を考えている、と紹介されています。

 

・第2章

第2章では、精神医学を歴史的に読み取り、「生物主義」という立場を立つに至った経緯が述べられています。人間が時に行う非合理的な行動についてどうとらえるかが初期の頃問題となっていました。すなわちA)犯罪者という存在、B)子どもという存在、C)近代以前は「狂気」という概念でとらえられていた存在の3つです。このCが医療の対象とされ、研究されたのが精神医学のはじまりでした。

本著ではBという部分が主体ですが、子どもは未熟ゆえに非合理的な行動を取ると考えられていました。成長によってその非合理的な行動は減っていくため、教育でアプローチするのですが、それでは不十分な子どもがいます。Cと絡めてこれが本著での取扱部分になる部分となるわけです。

Cのアプローチにも、2種類あります。一つは前出の「生物主義」で、正統精神医学と呼ばれています。もう一つが哲学的部分にウェイトを置いた力動精神医学と呼ばれています。このように精神医学と一言で呼んでも、2派いることがわかります。

 

・第3章

第3章では分類と診断について語られます。今では精神障害等はDSM-V分類またはICD-10分類にて分類と診断がされることがほとんどですが、伝統的な分類として外因性、心因性、内因性という考え方も紹介されています。

御存知の通りDSM分類もICD-10分類も単なるチェックリストであり、統計的な操作がされているものになります。

宮内倫也先生も述べていますが、「DSMによって”統合失調症”とされた疾患は”症候群”なのです。先達が築き上げた細かな分類を棚上げにしているので、色んな疾患がこの”統合失調症”に含まれております。」とある通り、おおよその分類になっているのが現状での精神科での診断です。

感染症結核菌が結核を引き起こす、ヘルペスウィルスが帯状疱疹を引き起こす、というのとは違い、原因と結果が一つで結びついていないのが精神科の特徴で、それゆえに同じ患者さんに対して、人によって「非定型精神病だな」「統合失調症だな」「躁状態では?」となっては研究する際不便なのでまとめちゃってるだけです。

だから診断=治療方法が唯一確実にある、とは結びつかないのも精神科の特徴です。

じゃあ診断ってなによ?ってなるんですが、本著では納得の行く答えが提示されていますので引用します。

すなわち診断名とは、子どもの内にある何かの呼び名ではなく、子どもの外につくられてある人工の「引き出し」の呼び名を意味する。たとえば、A君を「自閉症」と診断するのは、Aくんが自閉症という存在だということではない。ただ、Aくんの行動のあり方のある部分を選び出してひとまとめにして精神医学の分類の引き出しに入れるなら「自閉症」とラベルした引き出しに収まるということである。(中略)

言葉の世界を生きている私たちにとって「名前」がもつ力は大きい。名前を知ることがそれを知ることの第一歩で、名前が与えられることによってそれをまわりと分かちあうことができるようになる。だから名づけには納得や安心をもたらす力がある。診断とはその納得と安心のための「医学的名づけ」にほかならず、それを求めて診察室のドアをたたく子どもや家族は少なくない。それに応えることは、だいじなことである。

 診断の力はWRAPをはじめる!でも文章があります。今やWRAPを伝道する一人となっている増川ねてる氏ですが、19歳のとき「それは精神病かもしれません」と言われたときの初めて抱いた感情は「うれしさ」でした、と語られています。なんとも説明のつかないことに現実として認めてくれる人がいることはとてもホッとすることだった、と述べられています。WRAPを始める!―精神科看護師とのWRAP入門【リカバリーのキーコンセプトと元気に役立つ道具箱編】より、(p43)

 

 しかし、と「子どものための~」では語りが続きます。

「名前」はおろそかにできないけれども、診断名は診療のいわば入場券に過ぎない。いったん入場すればチケットはただの紙片になるのに似て、いよいよ診療がはじまれば、診断名よりも、その子その子に即した理解や援助こそが本人やまわりにとって必要なものとなる。そこでは名前ではなく、その子がどういう子なのか、どんな状況におかれているのか、まわりの心配はどこにあるのか、だからどうすればよいのか、等々の個別的かつ具体的な判断が求められる。また、この判断は治療が進むにつれ(あるいはうまく進まぬにつれ)、変化や修正がなされていかねばならない。このような把握が、広い意味での診断である。分類という意味での「診断diagnosis」ではなく、理解という意味での「診断formulation」で、これを本人や家族、その子とかかわる人たちと分かち合っていくことが診療なのである。そして、できればその分かちあい自体が、治療性をはらんでいる「診断formulation」であることが望ましい。

と。あくまでもチケットであり、そのもの自体に価値を置いていくことよりも、個別的な関わりが大切と語られています。事実、精神病は物理的に取り除いたり化学物質でいじったりして「根治」するものはまだ明らかにされていませんから、その人の生きづらさにアプローチすることが大切ですね。

上記であげた増川ねてる氏の著書でも、診断されたことに対してはとてもホッとすることだった、とは語られていますが、引き続いて根本治療は、今の医学では不可能ということを知りショックと葛藤が始まっています。なお、ねてる氏はその後WRAPと出会ってリカバリーしていきます。詳しくは過去記事をご参照ください。

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・第4章

第4章「精神発達」をどうとらえるか、第5章ピアジェの発達論、第6章フロイトの発達論と展開していきます。

著者は精神発達を認識の発達と関係の発達が2つの軸に影響され、ベクトル的に進んでいくものと説明しています。一応、かんたんな図式を描いてみたので載せときます。

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精神発達はZ軸のベクトルを向いて成長しており、X軸の関係の発達(フロイト的)とY軸の認識の発達(ピアジェ的)に影響を受けています。

両軸ともに偏りなく十分に成長したものが定型領域であり、いわゆる「普通の人」となります。

両軸ともに偏りなく成長が弱いものを「自閉症領域」と呼びます。

認識の発達に成長が弱いものを「知的領域」と呼び、関係の発達に成長が弱いものを「アスペルガー領域」と呼んでいます。

いま、アスペルガー(Asperger Disorder/Syndrome:AD/AS)や広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders:PDD)などもろもろの名前が自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder:ASD)に統一されようとしています。その理由は上記の図です。どれも明確な領域の違いはなく、お互いに関係しているからなんですね。なお精神遅滞(Mental Retardation:MR)も広い意味ではASDということになりますね。MRは他の障害と比較するとまだ進んでいる方なので、ASDという診断よりかはMRと診断されるような印象ですが。

 

大切なことです。このASDですが、障害とするかどうかは社会によって変動します。私たちはこころだけで、個人だけで成り立っているものではなく、その外の世界、社会的・共同的なひろがりとつながりによってはじめて成り立っているからです。

その社会における文化のあり方しだいで、精神発達のあり方は様々なヴァリエーションを持つと考えられる。時代や文化を超えて万古不易の精神発達はありえない。したがって、時代や文化の差を超えて普遍的な発達論、つまり発達論の決定版もありえないと考えられる。(中略)

だから、子どもは本来(正しくは)こう育つという精神発達、いわゆる「正常発達」なるものがこの世に存在するわけではない。ふつう正常発達と呼ばれるものは、その次代と社会の中で、そこでもっとも一般的な養育形態を通して育った子どもたちをたくさん集めて平均をとれば、どんな発達のパターン(定型)が取り出せるかというものに過ぎない。つまり、精神発達そのものに普遍的な決定版は存在しないのである。

だから、ASDなので足りてない!普通じゃない!ではないと思うんです。患者さんの中でもPDD等と診断された方はいます。確かに生きづらそうです。ですがその点を除けば普通の人です。ASDでも星はキレイで肉はウマイんです。定型との比較で不足があると思うのではなく、あなたはあなたなんじゃないでしょうか。それを踏まえて、どうしていくか話し合いたい。と、私は考えて日々看護をしています。

 

・第5章

第5章ではピアジェの発達論(認識の発達)について語られます。細かいことですが、言葉の定義として「認知=物があるということがわかること」「認識=概念的に物についてわかること」と述べられています。なぜわざわざそう定義しているかというと、物事に対しての理解度がどこまで到達しているかがわかると、関わり方がわかるからです。CBTでもよく、一度認知のレベルに戻してから再度認識し直すという事が行われますよね。

2つの違いを知ることは関わり方を変えることができるということにつながります。先に進んで第10章からの引用ですが、

認識発達のおくれは、ものごとの判断やコミュニケーションや技能習得に混乱をもたらすだけではない。世界を意味や約束を通してほかの人びとと分かちあうこと、人びとのもつ共同世界へ参入することの困難をもたらす。これはまわりの人達が当然のものとして共有しあい享受しあっている世界に入りきれないまま生きねばならぬことを意味している。

ここに、認識の発達におくれをもつ者固有の体験世界がある。A領域の子どもたち(注釈:知的領域のこと)は、たとえ関係の発達におくれはなくても、この一点で私たちの知らない独特の孤独や寂しさを抱えている。この子どもたちの逸脱的とみられる行動、いわゆる問題行動のわけを探っていくと、不安や緊張の問題に加え、この孤独の問題に行きあたる。

とあります。わからないから、社会に参加できないんです。社会に参加できないから、独特の孤独や寂しさが彼ら・彼女らにはあるということです。わからないということ、認識ができないということは単純に技能的に遅れを持つだけではなく、精神にも影響が及ぼされるということです。その仕組を理解するために、認知と認識の違いが述べられています。

 ピアジェの発達論は「同化と調節」「知性の発達」「シェマ(図式や仕組みといった意味)」を踏まえ、1)感覚運動期、2)前操作期、3)具体的操作期、4)形式的操作期と4つに分けて考えられている、と内容について噛み砕いて述べられており、ピアジェはテーマとして「認識」を取り扱っている、と著者は解説されています。

 

 ・第6章

発達を語る上でピアジェは大いに参考になりますが、他者との関係を築く部分においては不十分でした。あくまでもピアジェの理論では物事を理解する流れが理解できるにとどまっています。(それでも圧倒的にすごいことなんですが)

そこでフロイトの発達論です。

フロイトの活躍する時代は性倒錯が関心を集めていました。生殖という考え方からすれば非合理的です。しかも、そこを除けばごく普通の人間。なんでだ、というところからフロイトの研究は始まり、小児性愛と呼ばれる概念が生まれます。

1・乳幼児を育てている親は思わず我が子を抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られ、実際そうします。これ抜きの子育ては考えられません。しかも親の一方的な思い入れではなく、子どもが機嫌を直したり、成長につれ自らそれを求めてくるなど、乳幼児の側にも愛撫的な関わりへの強い欲求がみてとれる。

2・成人の性愛的な生活においても同じく抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られそうする。

どちらも、ふたりのどちらからとはいえない双方向性・一体性を持っている。この2者が同じ力の働きだとフロイトは気づき、大人のそれと区別するため小児性愛と名付けました。(でもすごいインパクトですね・・・)

この他者への希求をフロイトはエロスと呼び、その原動力をリビドーと名づけました。

そして年齢によってリビドーの分類をおこなってます。それがかの有名な1)口唇期、2)肛門期、3)男根期、4)潜在期、5)性器期という分類です。(すごい名前ですね)

親子の交流のチャンネルとしての口唇期(授乳)、社会的存在への第一歩としての肛門期(トイレトレーニング)、性差に気づき葛藤する男根期(父母との三角関係)、家の外に目が向く潜在期、そして成人性愛の性器期と、他者との関係を常に踏まえて関係の発達が完成すると考えられています。

名前こそすごいインパクトのあるフロイトですが、関係の能力がどう発達するかという考えから読み解けば、非常にわかりやすいものになっていますね。

 

ここまでで本著は約100ページ。そして本記事は6千字を超えています。一旦切って、後日引き続いての感想を書いていきたいと思います。

その2が出来ました。

 

sakatie.hatenablog.com