精神看護「まごころ草とばいきん草」

精神看護に関する自分なりの覚書

子どものための精神医学 滝川一廣 感想 その1

 

子どものための精神医学

子どものための精神医学

 

発売日すぐに買って、日々手を出して、やっと読み終わりました。ちょうど1ヶ月位かかりました。第2刷も決定したそうですね。大人気です。

内容が難しくて時間がかかったのではなくて、内容ひとつひとつが腑に落ちて考えを巡らせながら読んでいたため時間がかかりました。それくらい学びの深まりがある良著でした。

子どものための、とは銘打たれていますが、児童精神・思春期精神の領域以外の人もぜひ読んで下さい。特に発達障害の方々に対する手応え感が格段に変わると思います。また、個人的には育児書としても読んでもらえたら親としての軸がぶれないで済むような気もします。ほかにも、学校の先生(特に小中学校)にも読んでもらえたら、支援の理解につながるんじゃないかなと思います。

今まで「精神科の本って何読めばいいの?」と言われたら中井久夫先生の「看護のための精神医学」か春日武彦先生の「援助者必携 はじめての精神科」を薦めていましたが、発達障害や思春期関係で決定版となるような著書は寡聞にして知らず、おすすめできませんでした。これからは本著を「発達障害ならこれだよ」と合わせて薦めるようになると思います。

ちなみにまだ紹介してませんでしたが、中井久夫先生の「看護のための精神医学」は必読だと思います。また紹介しますね。

看護のための精神医学 第2版

看護のための精神医学 第2版

 

 

 本著の構成や内容についてくわしくはアマゾンに載っているので見てもらえればいいのかなと思いますので省略します。本著は「素手で読める児童精神医学の基本書」と銘打たれており、また上記中井久夫医師より「あの本(注釈:看護のための精神医学)には子どものことが書いていない。そこを君に」と伝えられ、書き上げられています。そういった使命をもって世に出された本、ということなんです。

今回は各章に分けて感想を述べていこうと思います。

 

・第1章

第1章では、こころをどうとらえるかについて述べられており、(素手で読める本なのでそこから丁寧に書いてあります)精神医学にとってこころは取り扱わず、脳の障害と捉え、客体的な物質として考える「生物主義」という立場に立っていると明示します。しかしながらそれは科学であり、たどり着かない範囲があるのが事実。哲学では「間主観性」があり科学ではたどり着かない領域を考えている、と紹介されています。

 

・第2章

第2章では、精神医学を歴史的に読み取り、「生物主義」という立場を立つに至った経緯が述べられています。人間が時に行う非合理的な行動についてどうとらえるかが初期の頃問題となっていました。すなわちA)犯罪者という存在、B)子どもという存在、C)近代以前は「狂気」という概念でとらえられていた存在の3つです。このCが医療の対象とされ、研究されたのが精神医学のはじまりでした。

本著ではBという部分が主体ですが、子どもは未熟ゆえに非合理的な行動を取ると考えられていました。成長によってその非合理的な行動は減っていくため、教育でアプローチするのですが、それでは不十分な子どもがいます。Cと絡めてこれが本著での取扱部分になる部分となるわけです。

Cのアプローチにも、2種類あります。一つは前出の「生物主義」で、正統精神医学と呼ばれています。もう一つが哲学的部分にウェイトを置いた力動精神医学と呼ばれています。このように精神医学と一言で呼んでも、2派いることがわかります。

 

・第3章

第3章では分類と診断について語られます。今では精神障害等はDSM-V分類またはICD-10分類にて分類と診断がされることがほとんどですが、伝統的な分類として外因性、心因性、内因性という考え方も紹介されています。

御存知の通りDSM分類もICD-10分類も単なるチェックリストであり、統計的な操作がされているものになります。

宮内倫也先生も述べていますが、「DSMによって”統合失調症”とされた疾患は”症候群”なのです。先達が築き上げた細かな分類を棚上げにしているので、色んな疾患がこの”統合失調症”に含まれております。」とある通り、おおよその分類になっているのが現状での精神科での診断です。

感染症結核菌が結核を引き起こす、ヘルペスウィルスが帯状疱疹を引き起こす、というのとは違い、原因と結果が一つで結びついていないのが精神科の特徴で、それゆえに同じ患者さんに対して、人によって「非定型精神病だな」「統合失調症だな」「躁状態では?」となっては研究する際不便なのでまとめちゃってるだけです。

だから診断=治療方法が唯一確実にある、とは結びつかないのも精神科の特徴です。

じゃあ診断ってなによ?ってなるんですが、本著では納得の行く答えが提示されていますので引用します。

すなわち診断名とは、子どもの内にある何かの呼び名ではなく、子どもの外につくられてある人工の「引き出し」の呼び名を意味する。たとえば、A君を「自閉症」と診断するのは、Aくんが自閉症という存在だということではない。ただ、Aくんの行動のあり方のある部分を選び出してひとまとめにして精神医学の分類の引き出しに入れるなら「自閉症」とラベルした引き出しに収まるということである。(中略)

言葉の世界を生きている私たちにとって「名前」がもつ力は大きい。名前を知ることがそれを知ることの第一歩で、名前が与えられることによってそれをまわりと分かちあうことができるようになる。だから名づけには納得や安心をもたらす力がある。診断とはその納得と安心のための「医学的名づけ」にほかならず、それを求めて診察室のドアをたたく子どもや家族は少なくない。それに応えることは、だいじなことである。

 診断の力はWRAPをはじめる!でも文章があります。今やWRAPを伝道する一人となっている増川ねてる氏ですが、19歳のとき「それは精神病かもしれません」と言われたときの初めて抱いた感情は「うれしさ」でした、と語られています。なんとも説明のつかないことに現実として認めてくれる人がいることはとてもホッとすることだった、と述べられています。WRAPを始める!―精神科看護師とのWRAP入門【リカバリーのキーコンセプトと元気に役立つ道具箱編】より、(p43)

 

 しかし、と「子どものための~」では語りが続きます。

「名前」はおろそかにできないけれども、診断名は診療のいわば入場券に過ぎない。いったん入場すればチケットはただの紙片になるのに似て、いよいよ診療がはじまれば、診断名よりも、その子その子に即した理解や援助こそが本人やまわりにとって必要なものとなる。そこでは名前ではなく、その子がどういう子なのか、どんな状況におかれているのか、まわりの心配はどこにあるのか、だからどうすればよいのか、等々の個別的かつ具体的な判断が求められる。また、この判断は治療が進むにつれ(あるいはうまく進まぬにつれ)、変化や修正がなされていかねばならない。このような把握が、広い意味での診断である。分類という意味での「診断diagnosis」ではなく、理解という意味での「診断formulation」で、これを本人や家族、その子とかかわる人たちと分かち合っていくことが診療なのである。そして、できればその分かちあい自体が、治療性をはらんでいる「診断formulation」であることが望ましい。

と。あくまでもチケットであり、そのもの自体に価値を置いていくことよりも、個別的な関わりが大切と語られています。事実、精神病は物理的に取り除いたり化学物質でいじったりして「根治」するものはまだ明らかにされていませんから、その人の生きづらさにアプローチすることが大切ですね。

上記であげた増川ねてる氏の著書でも、診断されたことに対してはとてもホッとすることだった、とは語られていますが、引き続いて根本治療は、今の医学では不可能ということを知りショックと葛藤が始まっています。なお、ねてる氏はその後WRAPと出会ってリカバリーしていきます。詳しくは過去記事をご参照ください。

sakatie.hatenablog.com

・第4章

第4章「精神発達」をどうとらえるか、第5章ピアジェの発達論、第6章フロイトの発達論と展開していきます。

著者は精神発達を認識の発達と関係の発達が2つの軸に影響され、ベクトル的に進んでいくものと説明しています。一応、かんたんな図式を描いてみたので載せときます。

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精神発達はZ軸のベクトルを向いて成長しており、X軸の関係の発達(フロイト的)とY軸の認識の発達(ピアジェ的)に影響を受けています。

両軸ともに偏りなく十分に成長したものが定型領域であり、いわゆる「普通の人」となります。

両軸ともに偏りなく成長が弱いものを「自閉症領域」と呼びます。

認識の発達に成長が弱いものを「知的領域」と呼び、関係の発達に成長が弱いものを「アスペルガー領域」と呼んでいます。

いま、アスペルガー(Asperger Disorder/Syndrome:AD/AS)や広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders:PDD)などもろもろの名前が自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder:ASD)に統一されようとしています。その理由は上記の図です。どれも明確な領域の違いはなく、お互いに関係しているからなんですね。なお精神遅滞(Mental Retardation:MR)も広い意味ではASDということになりますね。MRは他の障害と比較するとまだ進んでいる方なので、ASDという診断よりかはMRと診断されるような印象ですが。

 

大切なことです。このASDですが、障害とするかどうかは社会によって変動します。私たちはこころだけで、個人だけで成り立っているものではなく、その外の世界、社会的・共同的なひろがりとつながりによってはじめて成り立っているからです。

その社会における文化のあり方しだいで、精神発達のあり方は様々なヴァリエーションを持つと考えられる。時代や文化を超えて万古不易の精神発達はありえない。したがって、時代や文化の差を超えて普遍的な発達論、つまり発達論の決定版もありえないと考えられる。(中略)

だから、子どもは本来(正しくは)こう育つという精神発達、いわゆる「正常発達」なるものがこの世に存在するわけではない。ふつう正常発達と呼ばれるものは、その次代と社会の中で、そこでもっとも一般的な養育形態を通して育った子どもたちをたくさん集めて平均をとれば、どんな発達のパターン(定型)が取り出せるかというものに過ぎない。つまり、精神発達そのものに普遍的な決定版は存在しないのである。

だから、ASDなので足りてない!普通じゃない!ではないと思うんです。患者さんの中でもPDD等と診断された方はいます。確かに生きづらそうです。ですがその点を除けば普通の人です。ASDでも星はキレイで肉はウマイんです。定型との比較で不足があると思うのではなく、あなたはあなたなんじゃないでしょうか。それを踏まえて、どうしていくか話し合いたい。と、私は考えて日々看護をしています。

 

・第5章

第5章ではピアジェの発達論(認識の発達)について語られます。細かいことですが、言葉の定義として「認知=物があるということがわかること」「認識=概念的に物についてわかること」と述べられています。なぜわざわざそう定義しているかというと、物事に対しての理解度がどこまで到達しているかがわかると、関わり方がわかるからです。CBTでもよく、一度認知のレベルに戻してから再度認識し直すという事が行われますよね。

2つの違いを知ることは関わり方を変えることができるということにつながります。先に進んで第10章からの引用ですが、

認識発達のおくれは、ものごとの判断やコミュニケーションや技能習得に混乱をもたらすだけではない。世界を意味や約束を通してほかの人びとと分かちあうこと、人びとのもつ共同世界へ参入することの困難をもたらす。これはまわりの人達が当然のものとして共有しあい享受しあっている世界に入りきれないまま生きねばならぬことを意味している。

ここに、認識の発達におくれをもつ者固有の体験世界がある。A領域の子どもたち(注釈:知的領域のこと)は、たとえ関係の発達におくれはなくても、この一点で私たちの知らない独特の孤独や寂しさを抱えている。この子どもたちの逸脱的とみられる行動、いわゆる問題行動のわけを探っていくと、不安や緊張の問題に加え、この孤独の問題に行きあたる。

とあります。わからないから、社会に参加できないんです。社会に参加できないから、独特の孤独や寂しさが彼ら・彼女らにはあるということです。わからないということ、認識ができないということは単純に技能的に遅れを持つだけではなく、精神にも影響が及ぼされるということです。その仕組を理解するために、認知と認識の違いが述べられています。

 ピアジェの発達論は「同化と調節」「知性の発達」「シェマ(図式や仕組みといった意味)」を踏まえ、1)感覚運動期、2)前操作期、3)具体的操作期、4)形式的操作期と4つに分けて考えられている、と内容について噛み砕いて述べられており、ピアジェはテーマとして「認識」を取り扱っている、と著者は解説されています。

 

 ・第6章

発達を語る上でピアジェは大いに参考になりますが、他者との関係を築く部分においては不十分でした。あくまでもピアジェの理論では物事を理解する流れが理解できるにとどまっています。(それでも圧倒的にすごいことなんですが)

そこでフロイトの発達論です。

フロイトの活躍する時代は性倒錯が関心を集めていました。生殖という考え方からすれば非合理的です。しかも、そこを除けばごく普通の人間。なんでだ、というところからフロイトの研究は始まり、小児性愛と呼ばれる概念が生まれます。

1・乳幼児を育てている親は思わず我が子を抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られ、実際そうします。これ抜きの子育ては考えられません。しかも親の一方的な思い入れではなく、子どもが機嫌を直したり、成長につれ自らそれを求めてくるなど、乳幼児の側にも愛撫的な関わりへの強い欲求がみてとれる。

2・成人の性愛的な生活においても同じく抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られそうする。

どちらも、ふたりのどちらからとはいえない双方向性・一体性を持っている。この2者が同じ力の働きだとフロイトは気づき、大人のそれと区別するため小児性愛と名付けました。(でもすごいインパクトですね・・・)

この他者への希求をフロイトはエロスと呼び、その原動力をリビドーと名づけました。

そして年齢によってリビドーの分類をおこなってます。それがかの有名な1)口唇期、2)肛門期、3)男根期、4)潜在期、5)性器期という分類です。(すごい名前ですね)

親子の交流のチャンネルとしての口唇期(授乳)、社会的存在への第一歩としての肛門期(トイレトレーニング)、性差に気づき葛藤する男根期(父母との三角関係)、家の外に目が向く潜在期、そして成人性愛の性器期と、他者との関係を常に踏まえて関係の発達が完成すると考えられています。

名前こそすごいインパクトのあるフロイトですが、関係の能力がどう発達するかという考えから読み解けば、非常にわかりやすいものになっていますね。

 

ここまでで本著は約100ページ。そして本記事は6千字を超えています。一旦切って、後日引き続いての感想を書いていきたいと思います。