精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護に関する自分なりの覚書

精神科訪問看護に来て感じていること

 ありがたいことに、私の所属している医療法人は、急性期精神科病棟だけでなく、訪問看護も抱えており、この前転属が決まりました。

 まだ精神科訪問看護に来たばかりで若輩ですが、大変多くのことを感じているので少しお伝えできればと思います。

 

1)立場が逆転

2)高いケアの精度が求められる

3)覚悟も必要

4)病棟と地域で違う「ストレングスに着目する」という言葉の意味

5)歴史が浅い

こんなふうに感じています。一つずつお伝えしていきます。

 

1)立場が逆転

 一番はじめに痛感したことは「立場が逆転」したということです。ひしひしと肌で感じました。

 病棟では、あくまでも患者さんがケアを求めて入院されることが前提です。または、医療保護の場合は自分の意志ではないこともあります。そういった方に看護師として関わるとき、望まずとも自動的にはっきりと「あなたは看護師で私のことを看ている人です。私は看られています」という立ち位置が完全に出来上がります。病棟という存在があるだけで、強烈な言い方をすれば「強者と弱者」になってしまう力関係の構造が出来上がります。

 もちろん病棟で勤務しているときもそのことを実感していました。ですから、なるべく対等な関係を築きたい、同じ「病気現象について研究する」協力者として成り立ちたいと思い、関わっていました。下手な言い方をすればそういう思いを持てている自分に少し自信を持っていました。

 地域に出て関わりをするにつれ、「私はこの人の協力者なんだ」という自信は完全に誤信であることを体験し、打ちのめされました。もう全くのただのエゴでした。

 

 地域で求められる精神科訪問看護は、「あなたは一体何してくれる人なの」という利用者さんの期待に、どう答えることができるか。まずそこを構築することから始める必要があります。

 今まで病棟という箱物があったから考えなくて良かった、「私という看護師は一体何者か」ということを日々考える必要が出てきます。病棟であれば自動的に構造ができていましたが、地域ではそこから作り上げていきます。そのためかえって私が利用者さんに教わることも多い日々を過ごしています。

 そう言うと情けない話ですが、考えてみれば当たり前の話です。私は病気の一般的な共通項については少し学んでいますが、あなたという一人の人間については、全く知らないんですから。縁があって訪問看護を利用して頂いている、そして利用し続けてもらえている利用者さんについて教えてもらい、考えるのは当然のことですね。

 だから、精神科訪問看護師がお伝えできるのは「提案」までなのかなと感じます。病棟でやっていたような「助言」「指導」なんてことは大変取扱い注意の技法だと感じています。

 

2)高いケアの精度が求められる

 次に感じたことは、求められるケアの精度の高さです。精神科のケアとは、コミュニケーションです。コミュニケーションの精度の高さが病棟よりも大きく求められます。

 印象では、病棟のほうが急性期症状も出ておりコミュニケーションに注意を求められるように感じますが、実は病棟では「患者さんが看護師に話を合わせていた」んじゃないかと振り返って思います。「一日でも早く退院したい」という思いゆえに。そのことは、以前ご紹介させていただいた「この地獄を生きるのだ」でも語られていましたね。

sakatie.hatenablog.com

 地域では、利用者さんが看護師を選ぶ、というとロシア的倒置法ですが一部真理も含まれているでしょう。決して「言い放つ」ということは許されません。それが善意であれ、悪意であれ、癖であれ。

 例えば。訪問看護の30分間、良いように話ができ、ではまた来週とお互いいい雰囲気で訪問を終えようとしていたとき、帰り際に「また来週も本のこと教えてくださいね」なんて言って訪問を終えたとします。来週訪問に来ようと思ったらキャンセルになった・入院された・そっけない態度だった、ということもありえます。

 もしかしたら利用者さんは最後の一言が頭に残り、いろいろと本を調べたりして精魂尽き果てたのかもしれません。「あの看護師は教えろ教えろと、立場がおかしいだろ」と感じたのかもしれません。本当は、本の話がしたいわけではなく別の話がしたかったのかもしれません。たった一言で1回の訪問看護の意味合いや質が変わってきます。

 こういう場で常々求められるのは、メタ視点なのではないかと今感じています。自分と利用者さんが話している場面から一歩引いた自分を置き、「さて、この今話していることは利用者さんにとってどういう意味合いがあるのだろう・どんな価値があるのだろう」「私がこの話をする目的・意図はなんだろう」ということを、病棟以上に、30分常に考える必要があるように思っています。そうでなければ、それこそ訪問に来ている意味がありません。

 地域では、その水準程度の看護は常に求められていると感じます。

 

3)覚悟も必要

 覚悟とは、諦めるということではありません。覚え悟るということです。では何を覚え悟るのか。それは、利用者さんの人生は利用者さんのものだということです。

 ときには利用者さんは医学的には推奨されるわけではないことを選び行っていくことも多いです。今の所よくある体験としては「拒薬」ですね。

 「拒薬」という言葉も大変医療者都合でイケてないなあと思います。利用者さんが「これはいいな、これはよくないな」という実感のもと、もしくは考えのもと主体的に選んだいる選択ですから、単に拒薬と言うのはその人を拒否しているようなものに感じます。

 ただ、それと同時に看護師としては医師の指示の下動いているわけですから、その医師が処方しているものを適切に内服してほしいという我欲が出てくるのは当然です。だから、私もはじめ、「先生の処方されているものですから、まずは飲んでから先生に診察のときにお伝えしてはどうですか」なんて呑気なことを言ってしまったこともあります。

 「まずは飲んでから」だなんて言葉には、利用者さんの思いは一切入っていませんね。利用者さんの人生は利用者さんのものなんですが。覚悟ができておらず、医療者の顔ばっかり出てしまっています。 では、覚悟ができている関わりとはどういうものか。

 例えば、「どうしてこの処方されている薬、イケてないんでしょうねえ」や、「助けにならんですか」など、拒薬という行動に着目するだけでなくもうちょっと広い目線で、「拒薬現象」を全体的に一緒に話し合うという方法もあります。

 例えば、「私もあなたが薬を飲んでいる・飲んでいないなんて監視したくないですわ。飲んでなくても全然いいんで正直で行きましょ。攻めませんから。それよりもどう生活を充実させていくか考えましょうよ」と、内服が求める先の部分に着目するという方法もあります。

 利用者さん一人ひとりで答えが違うので、こうだという答えは出しにくい。薬が飲めていな事実が嬉しいことであるわけでもない。そういう狭間に飛び込んでいく覚悟。自分のコントロール欲を外していく覚悟。そういうものを大変強く求められていることを日々感じています。

 

4)病棟と地域で違う「ストレングスに着目する」という言葉の意味

 病棟でも「ストレングスモデルで」「ストレングスに着目して」というところで、その人の問題を解決するという構造からは脱した看護計画を立てたり、日々のケアに活かしたりしていました。「絵の得意なこの人と、一緒に話し合って絵のレクリエーションなんかいいよね」「文学の話で盛り上がったし、この人は読書が得意というストレングスがあるな」なんて、思ったりしていました。

 地域に出た今は大変恥ずかしい考え方だったと赤面するばかりです。それは、ストレングスに着目するということとは違う。それは、単に「その人と関わるための取っ掛かり」にしか過ぎません。しかも一方的。

 地域のストレングスはそういったたぐいの考え方ではないように感じています。もちろんまだ数ヶ月の身ですから、「地域のストレングスはこうです!」なんて語れません。ただ、今の所感じているのは、「地域でいうところの、ストレングスに着目するという言葉は、言い換えればその人の人生をいきいきと、どう歩んでいくかを考えていく」ということに近いかもしれません。得意なこといい事だけで終わるストレングスは取っ掛かりには最適ですが、本質ではないように思います。

 じゃあ、一介の看護師が、1週間、10,080分のうちに30分とか60分とかしか関わっていない人が、人の人生をどうこうしてくるのか、という話です。恐れ多いですね。

 ストレングスに着目するということは、1人の人に対して尊重と敬意と、ささやかにに励ましをもって関わっていくということなのかなと思います。「あなたが選んだ選択肢、合っていますよ。今していることは、大丈夫ですよ。」そっと添えていくような関わり。最後には、訪問がなくても何も問題のないように力をつけていくこと。それができるような看護が「ストレングスに着目する」関わりなんでしょうね。

 

5)歴史が浅い

 今のような形で精神科訪問看護が制度化されたのはわずか6年前平成24年のことです。それまでは一般の訪問看護での仕組みを精神科の利用者の方に適応しており、現状のような特別指示による毎日の訪問ができるような仕組みや、退院後の濃厚な訪問看護の提供や、家族支援の公認などはありませんでした。訪問看護の歴史自体が平成2年からの制度化ですから、基本的にこの分野は大変新しく、今訪問している私達がこれからの歴史を作っていくというような世界です。

 余談ですが平成2年のころの訪問看護はどんな時間・方法・回数を訪問しても1回300円の実費をいただくだけというような世界でした。そこから、今のようなきちんとした制度に作り上げていった今の先人たちには頭が上がりません。

 精神科訪問看護の歴史は浅いですから、今年の、2年毎の診療報酬改定と3年毎の介護報酬改定が重なった大改定は、制度がはじまって以来の大改定でしたね。市役所との一悶着があったり、薬局との連携が強化されたり、24時間電話の改定や機能強化型IIIの新設など、大きく物事が動いています。

 当然、すべての動きは地域移行につながっていきます。私達精神科訪問看護師が、人に、社会に、どのように役立って意味立っていけるか。国からの期待と視線が突き刺さります。

 

 このように、精神科訪問看護は大変新しくホットで、柔軟性に富んだ分野です。私達の普段の訪問が今後の精神科訪問看護の形を作っていくことになります。

 だから、日々の訪問には大変な意味があります。私達が利用者さん一人ひとりの人生に意味を持って関われること。役に立てること。人生にうるおいを提供できること。社会に役立てること。地域と連携できること。社会に参加すること。希望を持ち、責任を持って、唱道し、学び、互いに支えていくこと。地域に開かれていくことが求められています。

 

 精神科訪問看護に転属でき、大変光栄に思っています。どうか私が利用者さんの、社会の役に立てるように。日々願い、看護をしています。これからも精進していきますね。

マンガでやさしくわかるアサーション 平木典子 感想

 以前の記事でも日本能率協会マネジメントセンターのマンガでやさしくわかるシリーズを紹介していました。

sakatie.hatenablog.com

 今回も同じシリーズで、今度はアサーションについてです。 

マンガでやさしくわかるアサーション

マンガでやさしくわかるアサーション

 

 アサーションとは、コミュニケーションスキルの一つであり、哲学の一つです。その目的は「相手もOK、自分もOK」な関係作りをすることです。それによってより生きやすくすることを目指しています。

 アサーション自体が生まれたのは1950年代のアメリカですが、アサーションの流れをくんだYour Perfect Rightという著書が出版され、1970年代に人種差別や性差別の問題に大きく影響を与えたといわれています。1980年代に、本著の平木典子氏を中心に日本に持ち込まれ、今も広がっています。

 アサーションが素晴らしいと感じるところの一つに、ダイバーシティの考え方が大変強いことがあると思っています。「客観的に事実はこうです。私はこう考えています。あなたはどう考えていますか?話し合って知り、食い違いがあれば一緒にすり合わせたいと思います」と言う態度と哲学が大変尊い。いい考えだと思います。

 それと同時に、それが出来ている人は果たしてどれくらいいるのだろうと不安に思います。私自身でも、いつだってできているわけではありません。特に、精神当事者の方にとっては、この世の中でアサーションであることは大変困難が伴うのではないかと感じます。

 そのため、医療者も、当事者も、また世間一般の方々も「大切なことをしっかり伝え合う自己表現」は大切で、アサーションを学び続けることには大きな意味があると思います。

 本著は、そのアサーションを漫画で簡単に触れて知ることができることが大変価値の高い本になっています。ストーリー仕立てでわかりやすく、また非言語的なコミュニケーションについてもキャラクターの表情やしぐさで伝わり、理解しやすく学べます。漫画半分、文章半分で200項ほどですので、すぐに読めますし手軽さも魅力です。手軽ですが、キャッチーなところをさらっと触れているのではなく、芯も通った構成になっており、入門書にも学びなおしに、最適なのではないでしょうか。 

 

目次です。

Prologue アサーションとは

Part 1 アサーションの基礎知識

Part 2 自己信頼とアサーション

Part 3 考え方のアサーション

Part 4 言語・非言語レベルのアサーション

順を追って感想を述べたいと思います。

 

Part 1 アサーションの基礎知識

 「社会人が自分の気持ちや考えを表現していいなんてできるわけない」「仕事だから仕方ない。がまんしてやらないと。」というところから、プライベートを犠牲に働くCAの話から、本著は始まります。

 アサーションの考え方では、物事の捉え方や伝え方を「攻撃的自己表現」「非主張的自己表現」「アサーティブ」と3つに分けて考えていきます。上記のCAの捉え方は、ある側面を考えれば社会人としての規律を守ろうとしたり、役割を遂行しようとしたりしているように思えたり、仕事相手を尊重しているようにも思えます。アサーションの考え方で捉えなおせば、「非主張的自己表現」になるかもしれません。なぜなら、自分の感じていることを抑圧しているからですね。これは辛い事です。

 アサーティブな考えになるためには、まずは自分の考えや感じていることは何かを明確に理解することが必要になります。これが思ったより難しい事なんですが、まずは何か感じた時、「私は~~と感じた」と、「私は」を言葉につけて考えると理解しやすくなると解説されています。

 たとえば、ファミレスで知らない子供が走り回ってうるさいなと感じた時を例とします。「ああ、うるさいなあ。なんで親は注意しないのかな。でも子供はそういうものかな。自分もそうだったしな。店員さんが注意したらいいのにな。我慢我慢・・・」とかとか思ったとします。このままだと複合的な感情や考えが混ざっていて、自分が感じたことをストレートに見ることは少し難しいかもしれません。そこで「私は~~と感じた」という方法を使うこととします。

 すると、「ああ、私は今うるさいと感じているなあ。私は親に注意してほしいと思っているなあ。私は子供はそういうものだと思っているな。私は自分もそうだったと内省しているな。私は店員さんに注意してほしいと思ってるな。私は我慢しないとと思っているな・・・」という風に、6個の感情や考えに分化することができます。そうしてから、それぞれどういう風に伝えたり、理解したり、対処したりという風に考えることができるようになる、というのが「私は~~と感じた」という方法です。

 その次に、自分の考えや感じていることは何かが分かれば、なるべく正確な表現で人に伝えてみます。それをした結果、相手がどう受け止め感じたかを理解し、また自分の考えや感じていることは何かを明確に・・・というプロセスがアサーティブの基本的な考え方だと説明されています。もちろん分かったからと言っていきなりはできませんよね。そのあたりを本著は大変わかりやすく漫画にされてます。

 どうして、こういったプロセスが必要なのか。それは、「相手を大切にしなさい」という通念だけでは通用しなくなっているからです。「自分も大切にしていい」のです。それこそが、「相手もOK、自分もOK」を実現する大切な大前提です。

Part 2 自己信頼とアサーション

 周りに攻撃的自己表現の人がいるとします。拒否を認めないで命令をしてくる人や、集団で自分の欲求だけを言って通そうとする人、また逆にどんな頼まれごとでも無理ですと断って取りつく島の無い人等々・・・。場合によってはパワハラになったり、集団的ないじめに発展したりし得ることです。どうしてそういう人たちはこう言った攻撃的自己表現を取ってしまうのでしょうか。そして、どう向き合って人間関係を作っていけばいいのでしょうか。

 攻撃的自己表現を取っている人は、それで一時的に自分の欲求が通り満足することはできるかもしれません。しかし、そのことは同時にいびつな人間関係の構築につながってしまい、お互いの対等な関係を築くことが出来なくなります。また、自身の心の中でわだかまりのようなものを残してしまうとも言われています。最悪、孤立してしまうことだってあるかもしれません。

 攻撃的自己表現の人がいた時にはどう向き合うのか。例えば、難しいのに相手の要求をのんだり、自分が苦しくなるのに受け入れたり、自分が折れればいいと思ってしまう向き合い方をしてしまいませんか。「相手にも都合があるだろうし・・・」「できないわけではないし・・・」「事を荒立てるのは好まないから・・・」と、相手の欲求のままに受け入れてしまう。それで自分が何も苦しくなかったり無茶がなければいいのかもしれませんが、どこか「つらいな・・・」と思いながら受け入れているのであれば、それは「非主張的自己表現」かもしれません。本著の漫画でもまさにその通りの事が描かれています。

 「非自己主張的自己表現」では、自分の欲求不満を忍耐し、ついには抑うつ的気分になってしまったり、また別に欲求不満から怒りが溜まり、ついには爆発してキレてしまったり相手を恨んでしまうことにつながります。やはり、これも「相手もOK、自分もOK」にはなりません。

 アサーションでは、「歩み寄り」が最も大切だと説いています。相手には相手の考え方があると尊重しつつ、相手の尊厳を侵さない限り自己表現をしても良い権利を理解しつつ、話し合いによってお互いのずれを共に歩み寄っていく。そういう態度の事です。攻撃的自己表現をしている人も、シンプルに考えれば「~~してほしい」と思っているだけです。それを、例えば立場であったり権限であったり関係性であったり弁の立ち具合であったり性差であったり人種の違いであったり価値観の違いであったりで、補強して押し付けているだけです。「あなたは私のしてほしいことを叶えるべきである」と思っているんです。それは違う。だから、「どうして~~してほしいと思っているのか」を考えながら、同時に自分の主張もし、出来ない理由であったり、代替案であったりを提案して自分もOKになれるように歩み寄る。非常に大変ですが、このプロセスがアサーションの言う歩み寄りになります。

 歩み寄りをするうえで大切なのは、アサーション権の理解と、自己信頼になります。アサーション権については本著にも大切なところが触れられていますので、ぜひ一読してみてください。もう一つの自己信頼についてですが、少し本著から引用します。

  自己信頼とは、簡単に言うと自信のことです。自分をある程度頼りにすることができるようになること、自分を当てにできることが自信です。 幼い子どもは、自信がないときは助けを呼んだり、人の助けを借りてものごとを進めようとしたりします。誰かが助けてくれることがわかると、「助けてほしい」と言ってもいいことがわかり、そう言える自分、言うことに自信を持ちます。 自信を持って「助けてほしい」と言えることは、いわば、自分ひとりではできないことを伝え、助けてほしいと表現してもいいということですから、矛盾した言い方かもしれませんが、自信がないことに自信がつき、助けてほしいときはきちんと依頼することができます。本当に助けがほしいとき、相談をしたいとき、それを自ら認め、求めることは、じつは、自分の現状をよくわかっている自立的な行動なのです。

 本当にその通りだと思います。これを踏まえ、本著では攻撃的自己表現の人には弱みを見せられない側面があることと、非主張的自己表現の人には自分のできることとできないことの区別が自覚できていない可能性があることを指摘しています。鋭い指摘だと思います。

 本著の漫画では、何とか非主張的自己表現の主人公が自分の主張が出来、攻撃的自己表現の上司が歩み寄りを見せた名シーンが載っています。それと同時に、同僚から「最近生意気よ」と、葛藤も生まれています。どう展開していくのか先が気になる描き方です。

Part 3 考え方のアサーション

 この章では、少しアサーションを取り入れ始めた主人公が、ベテラン強面パイロットvs若手空気の読めないパイロットの衝突に遭遇する話が取り上げられます。この若手パイロットの評判は芳しくないにもかかわらず出世筆頭と取り扱われているという、社内でも7不思議に挙げられている不思議なものです。表面的にみると、ベテランパイロットと若手パイロットでは攻撃的なやり取りをされているように見えますが、ここにアサーションの考えを取り入れてみてみるとどうなるでしょうか。

 実は、若手パイロットは空気が読めないわけではなく、自分が信じている強い信念と価値観のもとに行動しており、自分が違うと感じたことは表出しているにすぎません。たとえ自分が信じて行った行動で自分が不利益を被るとしても、それ以上に自分の価値観を表出することが大切だと考えているようです。

 アサーションである為には、時にはこう言った衝突は避けられません。そういう時、どうするか。カナダの心理学者で、交流分析を提唱したエリック・バーンは「過去と相手は変えられない」と語られています。アサーションを試みて、相手と衝突した際には相手は変えられないと理解することが必要です。力技で何とかしようとしても、無理が生じます。

 エリック・バーンは続いてこうも語られます。「しかし、いまここから始まる未来と自分は変えられる。」そうです。自分を変えていくことで、未来を変えていくことが基本原則なんです。人との衝突について、何か思い込みをしていませんか。

 過ちや失敗を犯したら責められて当然。物事が思い通りにいかない時はイラついても当然。部下は上司の言うことを聞くべきだ。争い事は避けるべきだ。非主張的になっても仕方ない。などなど・・・。

 本著でも丁寧に解説されていますが、それらはすべて思い込みです。例えば電車が突然遅延したとしても、そこにあるのはそうである事実だけです。イラついたり、悲しくなったりするのは感情です。

 最初の方でもファミレスで知らない子供が走り回ってうるさいなと感じた時について書きました。Iメッセージにして、私は~だ、と感じることで感情が理解できます。

「ああ、私は今うるさいと感じているなあ。・・・」などなど。

 感情が芽生える中身は何か。感情の中には、自分の真意が含まれています。「ファミレスで知らない子供が走り回ってうるさいなと感じた時、自分はもしかして「うるさく走り回られていると自分が落ち着いて過ごせないから静かにしてほしい」と思っているのが真意ではないか。「公共の場では静かにするべき」は自分の価値観や思い込みかもしれない?・・・こういうことを考えていくことがアサーションの考え方だと語られていきます。

 ちょっと大変。でも、筋トレと同じです。鍛えれば身に付きます。今までの価値観や習慣を変えるには実践し続けることが必要になります。ジムに通い、継続してマシンを使っていくことで体作りをするのと同じように、アサーションの考えに繰り返し立ち戻り、日々の関わり方を点検し続けていくこと。これがアサーションを身に着けるということだと本著でも語られています。大脳皮質で理解するだけでなく、脊髄レベルでも体に染み込ませていく必要があります。アサーションは大変良い考えですから、付け焼刃で済ませてはもったいないですね。

 また、アサーションの経緯を振り返ればわかりますが、つまるところアサーションを考えるということは人権を考えるということになります。自分と違う価値観や考え方を持った人と関わる時、相手の価値観や考え方を尊重します。それと同時に、自分の価値観や考え方を尊重します。

  人権というと難しく感じますね。不思議・・・。だけど、怒っている人には人権がある。なぜならその人なりの理由や価値観、考え方があるから。それについて私は知らない。だから傾聴し、共感的態度で引き出す。そして私が感じたことや価値観、考え方を伝える。それによって沸き起こった感情を共有し、共に考えていく。相手には言いたいことを言う権利や自分を冒されない権利がある。私にも言いたいことを言う権利や自分を冒されない権利がある。時にはアサーションを使わない権利もある。そういった積み重ねの先に人権があるんです。一言でいえば人権は山崎まさよしの「セロリ」です。夏がだめな人だっていたっていいし、セロリが好きな人だっている。ただそれだけです。善悪や価値判断を下しているのは各々です。とはいえ、やっぱり感情的に難しいことも事実ですね。筋トレ筋トレ・・・。

Part 4 言語・非言語レベルのアサーション

 言語レベルのアサーションの一例に、DESC法という伝え方の技が紹介されています。これは、Describe、Explain、Suggest、Chooseの4つの頭文字を取っており、客観的描写、状況の説明、提案、選択という流れで自分の伝えたいことを話しつつ、相手の大切にしたいことを確認、ともに選択するという技法です。

 例えば会議が押していて、自分は後に予定もある時は、

Describe 会議は15分押していますね

Explain  私はこの後予定が迫っています

Suggest 一旦ここで会議を終了して次の会議の予定を決めませんか

(例:もう少し会議を続けたい)

Choose では私だけ先に失礼していいですか

 というような流れです。ただ、一読してわかる通り自分の要望を通すための技法ではなく、あくまでも会話の交通整理をするようなものです。なので、特効があったり自分の要望を押し通すような技法ではありません。あくまでも参考の一つ程度に思ってください。看護師はSBARも身に着けていると思いますし、そう難しいものではありませんね。

 ここで大切なのはアサーションの哲学を常に念頭に置きながら会話を進めるという部分です。それが言語レベルのアサーションと言えます。

 

 一方、非言語レベルのアサーションというと何か。本著では「聴くアサーション」を一例として取り上げています。聞く姿勢と態度を持って相手の話を聞いていくこと。

 これ、ほとんど傾聴の共感的態度ですよね。具体的にどのような態度や姿勢でいればいいかは本著では軽く説明されているにすぎませんが、例えば冒頭に挙げた傾聴の本や、以前に軽く触れた精神科面接マニュアルにもさまざまな技法が挙げられています。こういったものも合わせて読むと、より学びが深まるかと思います。

sakatie.hatenablog.com

 相手が自分と違うからと言って、それが間違いとは限りません。違うことをどう違うのか、なぜ違うのか、自分と相手の事を考えながら対話を繰り返していくことがアサーションであり、多様性であり、ダイバーシティだと思います。今の時代にはそれが求められていますし、もはや常識になっていると思います。

 大切なのは、アサーティブであろうとする態度、姿勢、哲学であると思います。アサーションは、自分も相手もOKであるために、人がもっている権利、責任、義務を明確にするものだと思います。何度も立ち返りながら、アサーションを筋トレのように身に着けたいですね。

マンガでやさしくわかるアサーション

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