精神看護「まごころ草とばいきん草」

精神看護に関する自分なりの覚書

精神科の薬がわかる本 第3版 / 予測して防ぐ抗精神病薬の「身体副作用」ーBeyond Dopamine Antagonism 感想

 

精神科の薬がわかる本 第3版

精神科の薬がわかる本 第3版

 

 

予測して防ぐ抗精神病薬の「身体副作用」―Beyond Dopamine Antagonism

予測して防ぐ抗精神病薬の「身体副作用」―Beyond Dopamine Antagonism

 

 今回は精神科の薬について。どちらも名著でぜひ手にとって欲しい本です。

私もまだ精神科の薬について人に説明できるほどの理解は出来ていないのですが・・・それでも、この本を読んでいると手ごたえを感じます。

残念ながら精神科は薬だけで全ては解決しません。しかしながら重要なファクターを占めているのも事実です。看護からも正しい知識を得て患者さんと関われば、教育的な支援に限らず情緒的な支援や環境的な支援も技術向上が見込めるのではないでしょうか。

 

この2冊について比較検討しながら話して行こうと思います。

 

1冊目の精神科の薬がわかる本 第3版は、精神科で使われる薬について網羅的に分かる本になっています。抗うつ薬睡眠薬抗不安薬抗精神病薬、抗てんかん薬、気分安定薬、抗躁薬など・・・。

各項目で丁寧に病気の仮説、薬の効果、作用機序、副作用、商品名と一般名および同ジャンル薬の薬剤プロフィールについて丁寧に描写されています。

基本的な解剖生理学の理解にあわせて内容が端的に書かれており、非常に便利です。反面文章が充分に練られており、読み解くのに少し頑張りが必要だなと私個人としては感じました。そのためぱっと見てぱっと理解しやすい本ではないというのが私の印象です。

 

私は精神科に行こうと思った時に、はじめに手にとった本の一つがこれでした。手に取った当時はあんまり分からない部分もあったのですが、辞書的に臨床で常に振り返り、学びを深めるのに最適な本だと感じています。

一般科と比較して精神科での薬は多岐に渡っており、しかもその作用は重複する部分も多いです。例えば睡眠薬は主な効果は眠気ですが、抗不安薬にも副効果として眠気があり、睡眠薬的に投与される場合もあります。NaSSAも眠気を誘う事から睡眠薬的に投与されることもあります。また、抗精神病薬の副効果に眠気や鎮静もあり・・・。と、なかなか入り乱れておりはっきりとした薬同士の線引きが難しいのが、精神科の特徴なのかなと思っています。

そのもやもやっとした部分にはっきりとした枠組みを提示してくれるのがこの本です。

ぜひこの本を用いて精神科領域を俯瞰する考え方を手に入れてみてはどうでしょうか。

 

2冊目は予測して防ぐ抗精神病薬の「身体副作用」―Beyond Dopamine Antagonismです。これは統合失調症圏での主軸である抗精神病薬に限定して書かれた本で、対象が絞られている分より深く理解が出来る本になっています。特にタイトルにあるとおり、身体副作用について100ページ以上割かれており、実例も豊富で非常に分かりやすい。比較図や表、グラフなど視覚的にも理解を深める工夫が沢山施されており、症例も多くあり非常に具体的。とてもとっつきやすい本に仕上がっています。

発売が2009年と、少し前の本ではあるのですが、2009年発売のクロザピンについても充分な量の薬剤プロフィールや研究結果の記載がありますし、それ以降発売のパリペリドンはリスペリドンの代謝産物でそれほどプロフィールに大きな差はありません。アセナピンは2016年発売の薬ですからそれほど多くの情報はまだありませんからね。充分に活用できる内容で、陳腐化はしてないといえると思います。新しい薬という感じのアリピプラゾールも実は2006年発売ですから、載ってます。

薬の受容体プロフィールも一覧表が付録でついていて、ぱっと見で効果・副作用が予想しやすくとらえ易い工夫がされています。プロフィールには主な受容体と関連する効果が記載されており、期待する効果である抗不安作用や睡眠の質の改善、情動の安定や副作用であるEPS、食欲増進、眠気、過鎮静、便秘、口渇、認知障害、起立性低血圧などの出やすさがすぐに分かります。

また、神経受容体レベルの副作用だけでなく、離脱、水中毒、悪性症候群代謝障害、痩せ、誤嚥性肺炎、認知症といった複雑な作用機序の副作用についても丁寧に説明がなされていて非常に、分かりやすいです。

本著を読み、常に副作用について念頭に入れておくことで普段の看護のかかわりや観察のレベルはぐんと上がると思いますし、おかしいな?と思った時に振り返りや考察、先生への提案がしやすくなります。

 

1冊目で薬の全体像を理解したら、本著で詳細について理解し、臨床に生かしていければ非常によいのではないでしょうか。2冊ともあわせて読んで欲しい名著です。

リカバリー・退院支援・地域連携のための ストレングスモデル実践活用術 萱間真美 感想

 

リカバリー・退院支援・地域連携のための ストレングスモデル実践活用術

リカバリー・退院支援・地域連携のための ストレングスモデル実践活用術

 

 リカバリーの勉強の強化期間第2弾です。

これ、去年の6月に発売されたばかりの本でしたか。良く書店などでも展示されていましたし、うちの医療法人の訪問看護部門のスタッフは「ああ、この本ね。基本で定番ですよ。」なんて、多くのスタッフが知っていたのでもっと古典的な本と思っていました。

 

冒頭が素晴らしいので引用してから紹介します。

受け持ち患者さんが”夢”を語ったら、あなたはどうするだろう。 あなたが受け持つ田中さんは、夢が3つあると語ってくれた。「退院して、アパートに住み続けたい」。これは、入院する直前までアパートで暮らしていた田中さんにとって、とても現実的な夢だ。看護計画を立てるのにもすぐに役立ちそうである。どうすれば今後入院しないですむかを、一緒に考えればいい。 2つ目は「自分の車がほしい」だそうだ。ここで看護師の頭の中には疑問符が浮かぶ。生活保護を受けていて、今仕事をしていない彼に、これは可能なのだろうか。実現性の低そうな夢に、看護師としてどう反応したらいいのだろうか。 3つ目は、「いつか、自分の家がほしい」という。ここで、看護師の頭には赤信号がともる。これでは看護計画が立てられない。立てられたとしても、全く現実的でないものになってしまう。本気で家を建てられると思っているとしたら・・・妄想かもしれない!?

と始まり、その後看護計画を立てることを念頭に患者さんと対話していきます。なるべく、現実的なものを。そして患者さんのやる気をそがないようにと。

しかしながら車と家を手に入れる為には仕事をするべき→その為には規則正しい生活→まず現実的に朝起きて食べるということを目標にしよう、となってしまいます。 患者さんと看護師、ちぐはぐです。こういった思考回路の事を筆者は「看護師の自動翻訳装置」と呼び、注意喚起をしています。

 

さてこの「看護師の自動翻訳装置」とはいったいどこから現れたのでしょうか。それは、看護教育における「問題解決モデル」が成し遂げたものと筆者は説明しています。

「問題解決モデル」とは、患者さんの中にある問題を見つけだし、それを解決することを看護計画に上げることを指します。基本的に医学モデル、看護モデルはこの問題解決モデルです。問題解決モデルは問題を解決する可能性をアセスメントしたり何らかのリスクを未然に防ぐことを可能とする反面、生活を支える・本人の意思を支えることには向きません。特に、精神領域などの慢性期では延々と問題ばかりが浮上してしまい、支えにはなりません。

 

そこでストレングスモデルです。ストレングスモデルはその人自身の意思や意欲に基づいたケアプランが立てられること、場所を限定し無い事、その人自身が病気や治療に向き合うことを尊重することがメリットとなります。ただ万能ではなく、対話できない状態の人や生命の危機の状態には、既出の問題解決モデルが適応です。

ストレングスモデルを得ることにより、従来とは別の概念軸が生まれ、より多層的な看護の提供ができる事が最大のメリットです。

 

特に本著に例があるわけではないのですが、冒頭の例をストレングスモデルの適応をするならば、【今までアパートで暮らすことが出来ていたこと】、【入院により加療できていること】、【車が好きだということ】、【将来的に家を持ちたいという夢・意欲があること】、【言葉で思いを表現できているということ】、【生活保護という社会資源を活用できていること】などなど、沢山の強みを挙げることができます。生活保護を受けているからと言って家を持ちたいということを思うことが許されない、そんなわけはないのです。それは事実に沿っているように感じますが、看護師の思い込みです。意欲があるのだから、まずはアパートで暮らすことを再開する為に一緒に話し合いを続けること、必要な治療について話し合うこと、どのようなことが問題となっているか再確認することなど、ストレングスモデルの適応により様々な突破口が生まれていくことがストレングスモデルの適応の効果といえると思います。病識や服薬コンプライアンスと言ったことは手段であり、目的ではないわけです。

 

ちょっと脱線しそうなのでここで目次の紹介をして、各項目で印象に残った部分等の感想を述べていきます。

 

第1章 看護に必須の時代へ(ストレングスモデルの必要性やメリット、役割)

第2章 1 アセスメントの基本(ストレングスモデルの概念)

第2章 2 対話をする(ストレングスモデルで関係性を構築する)

第2章 3 ストレングスマッピングシートについて

第2章 4 行動計画・看護計画を立てる(本人と役割を分担する)

第2章 5 退院調整・地域連携に活用する

第3章 教育現場での実践活用法

 

第1章ではストレングスモデルの解説部分です。

ストレングスモデルとは、1990年代前半に米国カンザス大学の社会福祉学部教授、チャールズ・A・ラップらによって提唱された障害者への支援技法であり、発祥が地域であると明言されています。今の時代、精神医療でも地域での治療に時代が変わっています。入院生活に過度に適応されてしまった施設症が取り沙汰されていたり、また国も精神科のベッド数を減らすことを計画されたりしています。イタリアでは原則的に精神科病床自体がありません。

また現状でも精神科の病院での患者さんとのかかわりは”管理”と言われています。今の時代誰でも携帯を持っていますが、精神科に入院すると制限される事が多いんです。ベルトの持込にも制限がかかったりします。パソコンなんてもってのほかです。退院すれば全部身の回りに普通にあるんですけどね。

だから時折病棟看護師と地域スタッフとの間で対立が生まれることもあります。「看護師は、当事者が自分で生活を組み立てている生活の場に、病棟での管理を持ち込んでくる」「そんな中等半端な管理的な支援は、地域ケアでは不要だ」「せっかく退院して、自分の家で好きなように暮らせる日が来たのに、訪問看護師が家に来て、私の出来ないこと(問題点)ばかりを指摘し続けるなんて耐えられない!」と。

もちろん医療の提供は必要です。いくら薬を飲みたくないといっていても、毎日服用している薬を無視して関わっていたとしたら、夢を叶える矢先に、病状によってその夢が叶わないとしたら、その人にとっての損害です。医療的なかかわりや管理部分も幾分は必要です。ただし、全体ではないということです。リカバリーの為には、身体の状態のケアは不可欠なのであり、”夢に向かえる身体づくりをサポートすること”が、看護師の持つ独自の機能なのではないかと、筆者は述べています。

ストレングスモデルの活用の一つのツールに、ストレングスマッピングシートがあります。これは筆者である萱間教授が作ったもので、A4用紙1枚に収まるものです。引用するのは著作権上どうなのか判断に悩むので、医学書院の紹介ページをリンクしておきますね。非常に使いやすい印象のあるものです。

医学書院/週刊医学界新聞(第3192号 2016年09月26日)

ストレングスアセスメントシートというものも以前からカンザス大学のゴスチャ氏が作って提唱していますが、それよりもさらに軽く、対話のツールとして活用しやすいのがストレングスマッピングシートです。私も活用を始めています。

 

さっきからストレングスストレングスと、繰り返し述べていますが、このストレングスとはどういうとらえ方をすればいいのでしょうか。

ストレングスとは、リカバリーの一部分です。リカバリーとは前回の記事の通りですが、再度引用しますと、

リカバリーは、病気と闘うとか負けないとか、そういうことじゃない。疾患のことは脇に置いて、人として自分の人生をいかに過ごすか、自分で考え、行動している状態だ。そして「あの人なら私のことをわかってくれるはず」と思える人をもっている。小さくても人から期待されるような役割と目標があったり、自分の目的があり、達成感を味わっている。リカバリーとは、こんな人の歩みだ。

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!より

と、本来の自分であれる状態の事を指しています。それは誰かに評価されるようなものではなく、主観的に感じ取るものでもあります。

本著より、リカバリーを遂げた多くの人がたどる段階を紹介されており、レーガンリカバリーの4つの段階と呼ばれています。すなわち1)希望、2)エンパワメント、3)責任、4)生活の中の有意義な役割、です。

著者が提唱するストレングスマッピングシートは

1)希望          夢・目標欄

2)エンパワメント     これまでの出来事、強み、受けている治療、役立つ経験

3)責任          病気によって起こっていること、体の状態

4)生活の中の有意義な役割 子出までの出来事、役立つ経験、夢・目標欄

に、それぞれ該当すると考えられます。このプロセスを踏まえてリカバリーの段階を獲得する為の基礎としていくといえるでしょう。

 

ただ注意点があります。このストレングスマッピングシートを完成させることが目標ではないという点です。あくまでもこれはプロセス・対話が重要であり、このマッピングシートを活用することによって、”シートを使って対話することで、ストレングスモデルの方が体得できる”(空手の型のように、構えが態度をつくるという意味で)と筆者が述べています。大切なのは完成した形ではなく、患者さんとの”あいだ”です。

 

問題解決モデルで患者さんと関わることは、時として対立を生むこともあります。人から問題ばかり指摘され、それを直すように指導・教育されてしまえばそういう状態に至るのも仕方ないと思います。こういった状態のきつい”あいだ”を、”あわい”に変えていく手法の一つがストレングスマッピングシートを活用したストレングスモデルのかかわりなのではないでしょうか。

 

本著は第2章の対話の部分に最も項を割かれて解説されています。また豊富な実例も挙げられています。ストレングスモデルに興味のある方は、本著が非常に読みやすく実践に繋げられやすいものだと思いますので、非常にお勧めします。

リカバリーの学校の教科書 感想

 

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

 

 自主的にリカバリーについての学び強化期間です。まずは当事者向けのわかりやすくまとめられているものから手をつけています。

 

リカバリーとは新風です。

今まで問題解決型の看護が提供されてきました。それはすなわちその人の病気等から悪い点を探し出し、それを解決するという方法です。その方法によって私たち看護師は常に問題探し、あら捜しをするような発想になってしまっています。短期的・治療可能な病気ならそれは効率的ですが、精神病等の慢性的な疾患に関しては非効果的であることが研究結果により明らかになっています。

リカバリー視点とは、その全く逆です。よりよく生きるためにどうするかを探す方法です。また、その主導権はその人本人が持っており、看護師は直接指導したり強制したりすることは出来ません。

 

例えるなら、アンパンマンのキャラにいるロールパンナです。彼女は出生がややこしく、赤いハートと青いハートと2つの心で常に揺れ動いています。ばいきんまんの影響が強くなるとアンパンマンを敵とみなし皆を攻撃してきますし、メロンパンナちゃんの影響が強くなると良い心を取り戻し、綺麗なものを綺麗と感じられるようになります。

もし彼女を問題解決型の視点で関わったらどうなるでしょうか。青いハートを取り除こうとされたり、状態が乱れた時にどうするかのケアプランを立てられてしまうのではないでしょうか。そして彼女が赤いハートでいる時の事は特に評価されないのではないでしょうか。

彼女をリカバリー視点で見れば、全く変わってきます。「いつかはメロンパンナちゃんと一緒に暮らしたい」と夢を見て、何の為に生きているかはわからないながらもくらやみ谷で人に迷惑をかけないようにそっと暮らしています。時に勇気の花を育て上げたり、生きることに悩むドーリィというキャラクターを悩みから救い出したりしています。もちろん青いハートが優位になり人を傷つけることをしてしまうこともありますが、それは彼女の本質ではありませんよね。

 

閑話休題。本著に戻ります。

本著は100ページくらいで短く簡単にまとめられていることと、当事者の声がそのままのっていること、見開きで1つのテーマを語られていること、大事なことがツイッターのつぶやきのように一言でまとめられていることが読みやすく、とても気軽でお勧めできます。

内容としてもロールモデルを持つ、からストレングスモデル、WRAP、リカバリーの哲学的部分やIPS(Individual Placement and Support/個別就労支援)まで幅広く解説されています。

またWRAPやリカバリーシートと言ったワークも複数あり、実際に手を動かしながら取り組むという点が教科書らしい、工夫されたいい部分と思います。

 

ロールモデルを持つこと、という部分では何人ものリカバリーをされている当事者さんの声が乗せられています。8年間入院していたが様々に仕事を行い北海道から九州まで日本全国を飛び回る程の活動をされている方や、WRAPファシリテーターとなり今では人のためにリカバリーを伝えている人など。紆余曲折はありながらも見事に自分のやりたいことを行えている人です。

その人たちは、特別だったからそうなったのでしょうか。違うように思います。自分のしたいことを勇気と責任を持って前に進んでやっていったのではないでしょうか。

 

本著よりリカバリーについての言葉を引用します。

リカバリーは、病気と闘うとか負けないとか、そういうことじゃない。疾患のことは脇に置いて、人として自分の人生をいかに過ごすか、自分で考え、行動している状態だ。そして「あの人なら私のことをわかってくれるはず」と思える人をもっている。小さくても人から期待されるような役割と目標があったり、自分の目的があり、達成感を味わっている。リカバリーとは、こんな人の歩みだ。

疾患の事は脇において、という点が本当に素晴らしいと思います。精神疾患があるからとはいえ、病気=その人ではないんですよね。統合失調症の○○さん、じゃなくて、マジックの上手い○○さんだし、勉学に励む△△さん、ですよね。

そして本著は引き続いて精神疾患がありながらも充実した人生を送る人の5つの特徴を説明しています。

1)疾患と異なる自己定義

2)生活の自己管理感

3)生きる目的

4)役割・責任・達成感

5)有意義な人間関係

それぞれについて詳しい説明は省きますが総括して、自分の夢を持ったり目標に向かって生きがいを感じたり、人間関係を豊かにするといった人生や社会に対してより積極的な態度を持つということです。

当事者の方が、本著を媒体にして、自分のリカバリーに向かう能力を高める(エンパワメントする)事が出来れば最も素晴らしいことです。ただ、全ての人がすぐにリカバリー視点が出来るかといったら、難しいところがあるのは事実だと思います。なぜなら、健常者と言われている人たちでも全員が”生きる目的”が持ててはいないんじゃないでしょうか。逆説的に言えば、私たち看護師もこのリカバリー視点は自らを高める為に使えると思います。

そういった意味で、あたかも私たちが当事者になった思いで本著を読んでいく事に意義があるのではないでしょうか。

中動態の世界 意思と責任の考古学(シリーズケアをひらく) 國分功一郎 感想

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

シリーズケアをひらくから出ているので、読みやすい本かと思っていたら本格哲学書でした。さらに言語学的基礎体力も要求されて、中々にハードでした。すごく面白かったです。

どうも京大・東大の大学生協で上位2位ぐらいの売り上げを記録しているようですね。

  ちなみにすごい横道にそれますが、各大学生協での本の売り上げランキングが公開されています。やはり大学によって雰囲気が違いますね。

www.univcoop.or.jp

 

 

本著を簡単にまとめるよう試してみます。

 

「する」と「される」の、能動態と受動態だけでは説明できない事ってありますね。カツアゲとか。銃を突きつけられてお金を要求されたら、強制的にお金を出している点では受動的だけど、結果お金を出すというところに従った点は能動的。カツアゲされるのって能動なのか受動なのか・・・。

そこで「中動態」が出現。「中動態」はその行為がやった人に帰属する事を指していて、例えば彼は馬をつなぎから外す、という言葉。彼が、そのまま馬に乗って出かけるなら中動態。彼は召使で、主人に馬を渡すなら能動態になります。なぜなら、自分の為の行為ではないから。

行為の「する」「される」には責任や意思が絡んでいるけれども、中動態では行為の「自由」と「強制」の度合いが絡んできます。

こういった中動態という概念がわかると、今までなんとなく分かりえなかった部分が理解できるようになっていきます。例えば、「する」「される」に二分される理解は、常に責任の所在はどこか追及しているという事がわかります。中動態で理解出来れば、物事を責任がどうこうではなく、状態がどうこうで考えることができるようになります。

物事を理解したり人に伝えたりするには言語を使用します。しかしその言語もどこかバイアスがかかっているかもしれません。「する」「される」の二分される理解では責任の所在を明らかにする言語というバイアスがかかります。能動態と中動態というものさしは、「自由」と「強制」の度合いを測るサーチライトになり、それは責任という部分では照らされていなかった本質が眠っている部分を鮮やかに照らし、物事の理解を深めるかもしれません。

そこから臨床に発展させるとするなら、例えば介護する/介護されるという物事。これも中動態での解釈を導入すれば自由度と強制度の度合いで考えていくことは出来るんじゃないでしょうか。また、本著冒頭でもあったアディクション。確かにお酒を求めて呑んでしまったのは事実ですが、そうせざるを得なかった文脈を加味すれば、強制度の度合いが高かった(中動態に対しての能動的であった)のではないか?ならば、責任を追及する形や意思を強く持てという立ち位置は不適切なのが明らか。それを踏まえて、どうかかわっていくかを建設的に考えることが出来るようになる・・・。それが、中動態という概念の可能性ではないでしょうか。

 

(970文字)・・・という感じでしょうか。自分の力不足を痛感します。

もちろん本著は上記の私が書いた駄文なんかでは拾いきれないほど沢山の慧眼が光ってます。

能動態と受動態には突然意思が現れること。

中動態の起源をめぐり紀元前の古代ギリシャ哲学にまで遡りある発見をすること。

ハンナ・アレントを補助線に描く中動態の概念に意思と責任について。

ハイデガーの放下とは。

スピノザのあらわす自由について。

そして最後にビリーバッドを題材に今までの振り返り。

上の駄文ではなく、原著でしっかりと概念を理解するほうが確実です。ぜひ興味がわいた方は読んでみてください。

 

冒頭のほうですぐに明らかになっていく事実なんですが、意思というものはあるんだかないんだかあやふやなんですね。

1980年代の生理学者ベンジャミン・リベットが行った実験によると、被験者に好きなタイミングで手首を曲げてもらい、その際の脳の動きを電位変化を通じて観測するということを行った結果、人間が実際に行為する0.5秒前に脳は関連する活動を開始しているが、被験者が実際に行為をしようと思ったのは0.4秒前と、必ずずれが生じることが分かっています。

これはどういうことかというと、意思→脳伝達→行為と、意思が初めにあると思われていましたが、実験によって脳伝達→意思→行為と、意思を持つ前に既に脳伝達が始まっていることが分かったということです。私たちの持つ(と思っている)”意思”って何なんでしょうね。

そんな意思を持って何かを行ったかどうかを常に責任追及される言語、たまったもんじゃないです。意思という概念自体あやふやなうえ、意思は常に流動的です。変化を伴っているものであるから責任追及なんて難しい。でも、責任追及をしなければ社会が成り立たない。法によって私たちを律しているから、その必要がある。・・・そんな必要から駆られて「する」「される」という能動/受動は生まれたのかもしれませんね。

 

また、本著は題材の面白さももちろんですが、その論の運びが非常にわくわくさせる流れになっています。

例えば第1章では、問題提起から始まり、「する」「される」について考えていきます。その中で「する」と「される」の事柄には意思が介在していることが分かっていきます。そしてこの意思とは、構文によって現れてくることが明らかになっていきます。「私が自分の手をあげる」から、「私の手があがる」を引くとどうなるか。残るものは意思か、何もないのか。何もないはずの何かを思い描かずにいられないのか。そこから中動態に答えを求めていきます。かつてあった中動態。しかもそれは日常的に用いられている言語の中に存在していた。なぜそれは消えていったのか。中動態のある世界とはいかなるものか?

・・・と、こんな感じに展開していき、第2章に引き継がれていきます。この運びはまるでテレビの引きみたいで、分かりやすく煽ってきます。また助かるのが、必ず次章のはじめに、それまでの振り返りを簡単に乗せてもらえている点。繰り返し読むのにありがたいです。

 

この本を読むことによって臨床的にも、前出の通りする/されるにとどまらない考え方・捉え方が出来るようになりますし、直接的にもスピノザハイデガーなど哲学書を読む時の補助にもなっていきます。いつか読んでみてはどうでしょうか。

看護研究についての自己学習ノートその5

続きです。

1)研究テーマ
2)研究の動機
3)研究の背景
4)目的
5)意義
6)研究方法
7)文献
8)作業計画

今回の記事でようやく終わると思います。長々と申し訳ありません。

 

テーマを決め、動機を振り返り、背景を知って目的と意義を見定めたならば、あとはどのようなツールを使って研究課題を明らかにしていくかということだけです。ゴールは近いですよ。

 

6)研究方法

研究には、大きく分けて2種類の方法があります。それが質的研究と量的研究です。

今までは説明のしやすさや理解のしやすさ、科学的妥当性の明らかな量的研究をベースとして説明していました。実は、質的研究という方法もありまして。これはその人の感情や信念など、数値化できようのないものを”そのまま”取り扱うという研究方法です。

質的研究の技法としては例えばKJ法やエスノグラフィー、グラウンドデッドセオリー、解釈学的現象学的研究方法なんかが挙げられます。

学生時代一応勉強しまして、個人的にお勧めの著書としては

質的研究のための現象学入門 第2版: 対人支援の「意味」をわかりたい人へ

質的研究のための現象学入門 第2版: 対人支援の「意味」をわかりたい人へ

 

 なんかがいいんじゃないかなと思います。というか、逆に言うとこれくらいしかまだ読み込めてません。質的研究を目指すなら素質として、ヘーゲルフッサールハイデガーソシュールあたりの哲学書がある程度分かる人がいいんじゃないかなと思います。私にはまだまだ分かりません。もっか勉強中です。

ただ、楽しいですよね、質的研究。どんどんゲシュタルト崩壊していきます。意見の相違や解釈の違い、誤読、気分の変調、カテゴリ名に関する議論など、物事が全く進まなくなる研究、それが質的研究です。病院での教育ラダーで指名されてやる看護研究にはあんまりお勧めしません。私は好きですが。

 

それに対して分かりやすい答えが出るのが(出やすいのが)量的研究です。

統計学を勉強しないと尤度を高めることはできないのですが(もっともらしい数値を扱うことが出来ないのですが)、質的研究では哲学に倫理学言語学社会学文化人類学に・・・多岐にわたる勉強と素質が必要になってしまうので、こっちのほうが現実的です。

統計学!?と思われる方もいるかもしれませんが、そんな難しい統計の出ないアンケートを作ってしまえばいいんですよ。

ただ、「こんなけパーセンテージに差が出ました」だけでは、さすがに研究とはいえないので、少しだけ統計学、勉強しましょう。

マンガでわかる統計学

マンガでわかる統計学

 

 これ。最強の一冊です。200件以上のブログが紹介して、150人以上が購入されてますね。

今まで散々出していた看護における研究にも沢山統計の情報が載っていて、非常に役に立つんですが(しょっちゅう引っ張り出して参考にしてます)、苦手なものをたくさんの文章だけで理解するのは現実的ではない。

その点この本は漫画です。女子高生が統計学をゼロから学んで行くという設定の話なので難しい言葉が出てきたらその都度解説してくれたり、理解を省いたりしてくれるので助かります。そして一つ一つテーマが「ラーメン屋さん」「読者アンケート」「学校のテストの偏差値」などといった比較的身近な話が多く読みやすい。

読者想定として「卒論や仕事でデータ分析を行う必要のある方々」とあり、まさに私たちです。

更にすごいのは、この本を読めば単純集計表における比較検討はもちろんの事、t検定にまで理解が深まるので科学的根拠の高い看護研究が出来ます。アンケート調査も出来ます。物事の関連についても導き出すことが出来ます。ちょっとだけ難しい言葉を使えば、帰無仮説の理屈がわかり検定力の高い統計ができます。かなりイイ本です。

 

ということで、量的研究として、質問紙調査票(アンケート)を用いた量的研究(単純集計表による比較検討)なんかが看護研究の中でかなりやりやすい分野になるんじゃないかなと思います。アンケート調査でGoogle scholarで検索してみると、例えばこんな論文が出てきました。

CiNii 論文 -  告知を受けたがん患者の治療選択における看護師の役割に関する研究 : 患者へのアンケート調査より

この論文の分析方法はSPSSという統計ソフトを使用してはいますが、やっていることは単純集計による比較検討ですね。追加で自由記述のカテゴリ化と概念化をしていますが、ここでは触れません。SPSSというソフトですが、なくても大丈夫です。Excelで充分ですから、職場のパソコンとかでやれば行けます。

前述のマンガでわかる統計学を読んでさえいれば、この論文レベルの統計ならさらっと出来るようになります。かなり論文として体裁は整えられると思います。なので私は量的研究を推奨します。

 

7)文献

文献の使い方ですが、研究の背景でも触れたとおり、今まで同じような研究をしてきた方々が沢山います。そういった方々の論文は科学的妥当性の高い文章です。それに乗っかることが文献の使い方です。

例えば、

「看護師はしんどい仕事で大変という声をよく聞く」

という文章を、妥当性のある文章にするなら、CiNii 論文 -  看護職者の勤務条件と蓄積的疲労との関連についての調査のはじめに、より

交代制勤務等に伴う看護職者の疲労は、日常生活 や健康への身体的な影響だけでなく精神的な不安徴候 や労働意欲の低下となり(越河, 1975)、バーンアウト シンドロームや離職の一因となっている(稲岡他 , 1992)。

 というふうに、先行研究を一言にまとめて乗せていくことが必要になります。こうすることで、独りよがりの文章ではないんだということが明らかになるので、なるべくこういうふうに参考文献は足していって下さい。

具体的な手順としては、背景で「あ、これ考えが近いな、同じだな」と思った論文から言葉を借りてきて組み立てていくという流れになります。学生の頃、国語の授業で100字要約とかやりませんでしたか。あれと同じ要領と思ってもらえれば大丈夫です。

 

あと、最後の参考文献の載せ方にも、細かいことですがお作法があります。

いろんなやり方があるんですが、どのやり方でも文章の書き方には統一性をもたせることが前提になります。上記の看護職者の勤務条件と~の書き方では、

伊藤聖子 , 柿宇土敦子他(1989). 新人ナースの離職願 望とその要因 . 日本赤十字社幹部養成所紀要 , 5, 29- 42.

と、【著者名】【年度】【タイトル】【記載されている文献名】【何号】【ページ数】となっています。

もう一個上のがんの~だと、

葛 生 栄 二 郎 , 河 見 誠 :新 版 い の ち の 法 と倫 理 , 第 3 版 , 法律 文化社 , 東京 , 152, 2003 .

と、【著者名】【タイトル】【記載されている文献名と出版社】【ページ数】【年度】となっています。参考までに。

 

8)作業計画

もう最初のほうに書いてましたね。おさらいとしてですが、計画は大まかでもいいので必ず立てて下さい。必ず後で空中分解する羽目になるので。計画が立ってさえいればどの程度空中分解しているかが分かるし、時間の逆算も出来るので、さくっと。

だいたい私の経験だと【テーマ決めと予備調査】で2ヶ月、【計画書作成】で1ヶ月、【倫理委員会申請】に1ヶ月、【アンケート作成】で2ヶ月、【研究介入】で1ヶ月、【集計・統計処理】で2ヶ月、【考察】で2-3ヶ月、という感じでした。まるまる1年くらいかかりますね。テーマ決めと予備調査にも時間はかかりますが、特にこのアンケート作成と考察がめちゃくちゃ時間かかりますし、時間をかけないと意味がないです。私たちは看護職員として日々業務に携わっています。それに追加で看護研究を行うので、無理のない、余裕のあるスケジュールを建てることが必須です。

ということで、なるべく余裕を持って早めに動くことが、後でしんどいことにならないためのポイントです。

 

全5回とくどくどとやってきましたがこれで終わりです。このノートは誰かの役に立つのだろうか・・・?私で力になれるようなことがあればなんでも言ってくださいね。

子どものための精神医学 滝川一廣 感想 その2

 

sakatie.hatenablog.com

 前回記事の続きです。

 

第6章までで、こころについての考え方、精神医学として科学的な態度、診断について、そしてピアジェフロイトによって精神発達のものさしを知ることができました。

これから精神発達についての理解と、今私達が生きている社会について、そして発達障害へと著者は語りを進めていきます。

 

・第7章

ここでは前章までで身につけたものさしを使って、精神発達の道筋を学んでいきます。

前出の図の通り、関係の発達と認識の発達のちからに引っ張られ、精神発達は進んでいきます。これは障害の有無関係のないことです。

精神発達という視点からとらえるかぎり、定型発達と発達障害との間で発達の<構造>に質的なちがいはない。どちらも同じ道筋を進んでいく。ただ、発達障害のほうがその足どりがゆっくりで、社会のマジョリティが達している平均的な発達水準に届かないという相対差があるにすぎない。しかし、その相対差が発達の<内容>にちがいをもたらし、そのちがいが実社会を生きるうえでしばしば大きな障壁としてあらわれざるをえない。その困難さを指して、私たちは「障害handicap」と呼んでいるのである。

その障壁に対する努力、もがきが異常的な行動に見えると解説されています。そしてまた、発達障害だからといえども、精神発達に終わり(完成)はないと考え方はあると紹介されています。つまり、幾多の人生課題に出会い、様々な経験や努力を重ねてそれを乗り越えていくことは、障害があってもいつかは行うことということです。

 

またこの精神発達は速い子もいれば遅い子もいます。小児看護や母性看護でも学んだ通りと思いますが、ある程度のぶれは生じます。同じ1歳半でも、指差しを得意とする子もいれば興味を示さない子もいます。イチロク健診で要観察と言われたからといって、必ずその子が何か問題あるとは限らないということです。あんがい大きくなれば均されていくことが多いです。

ただ、精神発達に終わり(完成)はないんですが、その人その人個別に、ある一定水準に達すると成長の曲線が緩やかになり、水平に近づいていきます。その達成値がやはり、発達障害では平均に届かないレベルで「完成体」となることが障害の所以となります。あくまでも発達に遅れた未熟な存在というわけではなく、そうであるという成熟した姿と捉えます。ですから、伸びしろがあるんだから怠けるな!ではない。今のあなたで工夫できることはなんだろう?です。

 

ではこの精神発達を推し進める力とは?・・・その理解をすすめるのが先程学んだピアジェフロイトの発達理論のものさしです。ピアジェが「シェマを獲得していくこと」、フロイトが「リビドー」と名づけたこと、この2つが精神発達を推し進める力だと、解説されています。

そして、この精神発達を推し進める力を知能分布を手がかりに実証したのがペンローズであると紹介されています。

ペンローズはおおよそ身長、体重、足の速さなどと同じように知能も正規分布をなすと仮設を立て調査を行いました。その結果、やはり知能もほぼ正規分布をなすことが明らかになりました。ただ、IQ100を超えるものの分布図はきれいな正規分布を描いていましたが、IQ100以下のものの裾が若干上がっていることが結果として導き出されました。

なぜ両方が正規分布を描かなかったのでしょうか?・・・病理群の存在が正常偏倚を乱していました。

病理群とは、後に語られますが、すなわち交通事故などの外傷、経済的困難、被虐待児、不備な養育環境で育った子などの特異的な子どもらを指します。

なお、ペンローズの研究に発展し、関係の発達でも正規分布を描いているかどうかを、バロン=コーエン(2001)や鷲見聡氏(2006,2015)が調査を行っています。いずれも正規分布を描いていることが明らかとなっています。すなわち、一定割合のASDレベルの精神発達者は自然の個体差としてかならずいることが明らかになっています。

自閉症AQ指数について:バロン=コーエン(2001)http://docs.autismresearchcentre.com/papers/2001_BCetal_AQ.pdf

 上記日本語版:自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版の標準化:若林明雄(2004)自閉症スペクトラム指数 (AQ) 日本語版の標準化

 

・第8章

精神発達には個体差があることがわかりました。では、精神発達によって得られる社会化ってどんな感じになっていくのか?ということが第8章では明らかになっていきます。

生まれてすぐでは、まどろみとほほえみ、啼泣とマザリングで育っていきます。ふと生理的な笑顔を赤ちゃんが浮かべ、親が愛情を持って返す。不快を感じて泣き、親が愛情を持って手当する。

マザリングとアタッチメントによって感覚の共有をしていき、感じていることは自分ひとりでないことを感覚で知っていく。

そして首がすわって探索行動へ。あちこち見てみたり、試してみたり。少し親から離れてみて、すぐ戻ってみてという安心の共有と探索。

バブリング(喃語)を出して感情と情動の共有をし、同じものをみて親と同じく感覚や関心の共有をする。

いただきます!ごめんなさい、など挨拶等の模倣と行為の共有、トイレトレーニングなどのしつけを通して意志の発達。

言葉のはじまり。二語文、三語文と言葉によって様々に共有・共同していくことを獲得していきます。それによって認識の社会化、関係の社会化へと成長していく道筋を描いていきます。

これらの精神発達について、第8章では鮮やかに描かれています。これは、見事。小児や母性の実習の時にこの文章を見て学べてたら、もう少し感じ方が違ったろうなあ・・・。この章は卓越した描かれ方をされているので、ぜひ、私の言葉ではなく実際に手にとって読んでほしい部分です。

あえて一つ引用するなら、言葉の構造での指示性(認識)と表出性(関係)の部分でしょうか。

まず、言語とはどんな構造をしているかを考えておきたい。情報伝達の信号系としてのコトバなら、ミツバチでもイルカでももっている。しかし、人間の言葉はたんなる信号ではなく、世界をとらえ分けるための意味(概念)や約束(規範)の体系をなしている。私たちがものごとを認知的にではなく認識的にとらえるのは、この人間固有の言語のはたらきゆえである。この言語のはたらきを、言語の「指示性」と呼ぶ。「これは○○です」など、対象を指し示す(あるいは認識する)機能である。

それと同時に人間の言葉は相互交流のチャンネルであり、私たちは言葉によって体験を共有しあい、「関係」をもちあっている。この場合、たんに情報を伝えあうのではなく、何よりも情動を分かちあうはたらきを言葉は備えている。このはたらきを言語の「表出性」と呼ぶ。「おやまあ!」など情動を表出する機能で、情動とはひと同士のかかわりのなかでたえず生起し、またひと同士のかかわりを動かす大きな力となっている。

 言葉とは2つの意味がはらんでいるということです。認識の発達が優れたアスペルガー領域ですと言葉が四角いのはそういった指示性が高まっているからであり、あわせて表出性が低いゆえに共感が難しい、ということになります。言葉の綾や比喩もまた、表出性の読み取りの問題になります。障害のある人はなぜ読み取れないのか、またどうすればいいのか。

この段階での情緒的な関わりによって心のベースキャンプが親とともに築かれて行きます。精神発達は親と、そして社会との共有によって育まれていきます。

 

・第9章

そしてここから、発達障害とはなにか、今までの前提を踏まえて探っていきます。次章の発達障害における体験世界との2章だけで100ページ近く割かれて解説されていきます。本著の最も美味しい部分です。

 本著では発達障害を次のように定義しています。

「なんらかの精神発達のおくれをもち、それが生きにくさをもたらしているもの。」

そして前出のグラフの通り、関係の発達、認識の発達が遅れているものを全体的な遅れとし、更にその中の一部が遅れているものを一部の遅れと表現し、LDやADHDなどの網羅をしています。また、グラフの0の時点から精神発達はするものの、そのおくれや完成体の場所の違いで発達障害は説明できると明確に表現されています。

 

社会の近代化につれ、全国民が学校での教育を受けることが進められていきます。それに乗っかれないものが出現してきて、特にMRが顕著でした。そこからピネル、アヴァロンの野生児に取り組んだイタール、セガン、モンテッソーリと教育的・療育的な取り組みの礎ができていきます。「治す」ことはできなくても「育む」ことはできるのでは。それはMRだけに限らず、自閉症児にも支援は広がっていきます。

自閉症といえばカナーとアスペルガーが研究者として有名ですが、特にカナーの診た自閉症児の家族には知的エキスパートとして成功した人の割合が極めて高かったため、児だけでなく親にも注目が当たるようになります。ほか、ラター、ホブソン、バロン=コーエンと様々な研究者が論を展開していくさまが描かれていきます。

その中でアスペルガーは、知的な遅れはなく対人関係や社会行動の独特なアンバランスだけが目立つ自閉症のグループを見出し、これを疾患や障害ではなく、一種の個性と考えた。英米では1981年頃ウィングがこの説を広めていき、やっと現在に近い考え方に展開されていくことになります。

 

余談ですが、このあたりの歴史はTEDのある動画に詳しく解説されています。

スティーヴ・シルバーマンの忘れられていた自閉症の歴史です。15分弱で歴史がうまくまとめられていて、興味深く見ることができます。合わせて、よければどうぞ。

www.ted.com

・第10章

 ここではさらにASDの体験世界・固有の世界・個別性に迫っていきます。今までの部分はすべて外から観察した行動の特徴であり、教科書や診断マニュアル的である。私たちは行動を生きているわけではない。本人の内側の「体験」を知ることが本人を理解することにつながると述べています。

認識の発達におくれがあれば、自分にはよくわからない世界のなかにおかれる。わけのわからない世界で生きていかなければならないということに。

関係の発達におくれがあれば、人と支え合う力がよく育たず世界を一人で受け止めていかないといけません。分け合うことができず、孤独の世界に生きていくことに。

言葉で呼び分けられることの意味として、認知が認識に発展することによって次のような効果があると述べられています。

1)個体内部だけでの体感経験だったものが、ほかの人との間でコミュニカティブに共有できる体験となる。

2)自分に生じている感覚を、言葉によって対象化して客観視できるようになる。

3)ただの生理的な感覚ではなく、それが意味性をもった体験となる。

これをまず認識の発達におくれがある子で考えると、1)感覚の共有ができず自分一人で孤独に対することになり、2)体験を明確に捉えたり処理できず、3)起こっている意味もわからず、感覚刺激に翻弄される形となる。

またこれを関係の発達で考えると、1)感覚の共有感に乏しく社会的な共同性を土台と出来ず、2)自ら孤軍奮闘して獲得した独自の捉え方をし、3)意味の捉え方を一元的であったり状況による応用ができない形になったりする、となると思います。

だから、関係の発達に遅れがあると認知された物事に対する社会的なシグナルをうまく取捨選択することができず、例えばバス停の風景を見ても、その風景の中にある鉄柱の錆模様や通風口の格子目をフォーカスしてみてしまい気持ち悪くなる、といったことが起こり得ると言われています。ほかの角度からいえば、カクテルパーティー効果がうまく働かない状態とも言えるのかもしれません。

 

・第11章

さて、体験世界についてはわかりました。ではどうやって支援していくか?この章では支援について語られていきます。

ここまで読み進めていけば自然とわかってくることですが、ASDにマスターキーはありません。これで解決!といっただれにでも通じる普遍的な答えがないんです。なぜなら、一人ひとり人間は精神発達に違いがあるからで、ASDと診断されたからといってその個別性に違いはないからです。だから、その人ひとりひとりの困り事や精神発達の段階を丹念に共有し、理解し、個別的な支援が必要になってきます。

そう言ってしまうと、なんとも、手の施しようがないように感じてしまいますが・・・。つまるところ、今まで挙げていた発達のものさしをもう一度使い、どの段階でどのように躓いてしまっているか一から再点検することが解決の糸口を見出す方法のひとつなんじゃないかなと思うんです。

この人は三者関係の築き方に躓いている。二者間の関係を丁寧にして精神的安定を図ろう、とかこの人は言葉の指示性と表出性についての理解ができていない。丁寧に社会化していこう、とか、そういう形の支援が本質になるんじゃないかなと思います。

 

さて。第4章での感想のところに「障害とするかどうかは社会によって変動します。」と軽く書いていました。その社会とは、今、どんなものなんでしょうか?

現在ASDの診断は増え続けています。その理由はTEDの動画にもある通り、診断の範囲が広がったためです。さらに、日本でも産業構造の変化が後押しをしています。

戦後の日本は第一次産業で働く人が39.8%の第一位でしたが、2015年現在3.6%だけです。その代わり第三次産業が現在70.0%と圧倒的割合で第一位になっています。

それにより「自然」と「もの」を相手にしていた時代から、「ひと」相手の仕事に価値観はシフトしていきます。自ずから、私たち社会の価値観も第三次産業の価値観に影響され引っ張られていきます。

第三次産業は、ひとに(ひとの欲望に)はたらきかけて消費を生み出す労働である。そのためひとが何を望むか(望まないか)を敏感に察したり、ひとの欲求や欲望をたくみに引き出したり、ひとに好感情や心地よいサービス感を与えたり、不快感を与えぬよう気働きするなど、きわめてサイコロジカルな対人能力が必要とされる。

そこでは「生産性」ではなく、そのような性質の「社会性」こそが労働に求められ、これが最大価値とされる。自閉症スペクトラム系の人たちがもっとも不得手なところだろう。

まさにその通りだと思います。そこから、「仕事さえできればよし」が許されないようになります。「社会性」のあるなしが人間評価の基準と化すようになっていきます。しかもその社会性は、日本ではちょっと独特だと著者は脚注をつけています。

ただし、ここで求められる「社会性」とは、対人配慮性とか対人協調性というニュアンスが強く、それに比して公共性(パブリックな意識)という色合いは薄い。まわりのひと、直接かかわる人との関係のなかで相手をおもんばかり、対人常識をわきまえ、迷惑をかけたり不快な思いをさせず、仲間の間がうまく回るようにこころをはたらかせるのが、ここでの「社会性」である。その意味で、(たしかに高い対人能力ではあっても)ごく狭い関係世界内だけでの「社会性」というべきかもしれない。友人・知人・同僚など具体的な他者の外にある抽象的な他者にまで視野がひろがることによって、「公共性」を帯びた社会性がもたらされるが、そのひろがりには欠けている。

と辛辣に語っています。あえて何故ここでこの脚注をつけているのか。それは、おそらくアスペルガー領域のASDの人が捉える本質的な「社会性」とは違うんだよ、という指摘なのじゃないかなと思っています。アスペルガー領域の彼らは、規律の応用的な拡大解釈が苦手ですから。

 

この社会の価値観の変化は子どもたちにも影響を与えます。かつて昔は士農工商で子どもが就ける仕事は固定化されていましたが、近代化により自由になります。そこで立身出世を目指し、勤勉に励み学歴を得て社会的地位を高めることを目指していた(またある程度その努力は功を奏していた)時代ではなくなりました。70年代初頭まではこどもたちの間でも勉強をまじめにするのはよいことだという価値観は自明なものとして共有されていた。しかし現在、価値観は「社会性」にシフトし、勤勉であることだけに価値はなくなりました。テレビのタレントのような「面白いことを周りの様子を察し、面白いタイミングで」ということに価値観が置かれ、変化していきます。

ASDの子どもたちにはその価値観と行動には不得手で、ついていけません。学級内で異質化してしまいます。子どもは異質を見つけるのが得意ですから、そこから、いじめに発展していくことは自明の理でしょう。

 

 ・第12章

部分的な発達の遅れにフォーカスを当て、第11章と近いことを再度解説されています。LDとADHDについて、詳しく載っています。繰り返しの部分もあるので感想としては省略します。ADDについては栗原類の本が、当事者目線と母親目線の2つがすごくいい塩梅で書いてありますので、よければ参照してください。

sakatie.hatenablog.com

 

・第13章

13章では子育てをめぐる問題として親と、その周りの社会についての解説が鋭く光ります。その中で子育て困難の第一グループ、第二グループとふたつに分けて考えを提示していきます。そしてそれを14章、15章と展開していく流れとなっていきます。

 

子育て困難の第一グループとは、子育てが個人的・私的なものに変化したことによる子育ての密室化、社会化の難しさがその要因の例としてあげられています。

子育て困難の第二グループとは、社会全体の子育てのレベルが上がったことによって、その子育てのレベルについていけない親たちの子育てになります。すなわち、現代水準から言えば「不備な子育て」や経済困難、家族間の不和、疾病、子育ての不得手さがその要因の例としてあげられています。

 

 さてそのような子育て困難のグループは、どのような社会変化によってもたらされたのでしょうか。

端的に伝えると、かつての「子育ては地域でするもの、拾い子はよく育つ」といった価値観が完全崩壊し、「子育ての責任はすべて親にある。その子どもの成長と将来は全くの自由であり、選択の自由は保証されている。ただしその責任は家族がもつものとする。」というような変化であると、歴史に沿って説明されていきます。この章めちゃくちゃ良いので、ぜひほんと、手にとって読んでみてください。大学の授業ばりにためになります。

そして、もう一つ。貧困が解決し、70年台をすぎる頃から「一億総中流社会」という意識が生まれ、子育てにかかるコストはどんどん上がっていきます。それについていけない、貧困の家庭も残念ながらあるのが事実。実はそういった家庭が、子育て困難の第二のグループに属しており、児童虐待に発展するリスクや犯罪リスクが高くなってしまうのが、疫学統計の結果。経済状況の解消がカンフル剤になるのですが、十分な支援がたどり着いてないのも現状。難しい問題です。

 

・第14章

 子育て困難の第一グループについてです。子育てが個人的・私的なものに変化したことによる子育ての密室化、社会化の難しさがその要因の例としてあげられていました。

この第一グループにより導き出される障害が、家庭内暴力~引きこもり、摂食障害、と顕著化されやすいと語られています。

何故密室化されるのか。家族間の葛藤がデリケートになっていったからと筆者は述べています。

親が子に願う(求める)もの、子どもが親に願う(求める)ものとの間で微妙な齟齬や摩擦が生じ、関係の濃さのなかでそれが煮つまるのである。もちろん、家族間に葛藤がまったく起きないなんてことはありえないし、子どもの成長とともに親子間に対立が生じるのはあたり前。その葛藤や対立こそが、成長の糧である。

問題は、それらの葛藤を葛藤として、対立を対立として、ときには衝突しあい波風も立てつつ子どもが成長の糧としていくことが、濃くなったぶんデリケートになった現代家族の心理関係ではむずかしくなったことである。親密的で心理的距離も近いのに(近いゆえに)、こころをオープンに開きあったり、ぶつけあうことが、かえってできなくなっている面がある(距離が近いゆえに疎隔するという現代家族のパラドックス

(中略)個人化、「私」化した子育ては家族間の親密さを強く育む反面、共同社会とのつながりの薄さともあいまって、子どもたちに社会的な対人能力、社会的な状況でのトラブルや葛藤に対処する力を育むことをむずかしくした。近隣共同体が消滅したあとは、子どもに社会的な力を育む役割は「学校」がほとんど全面的に引き受けるようになった。しかし、それには家族での子育てと学校での教育とのシンクロナイズが必要だけれども、そこもうまくいきにくくなっている。

と。まさに真理と思います。その葛藤の結果、子どもが行う対処行動はひきこもり。摂食障害。抑圧という方法がなされなくなった今の時代、子どもは問題に対して回避行動をとりがちです。学校や家族の葛藤で引きこもり、引きこもることで学校や家族との葛藤の対処能力を得る機会を失っていく。真綿で首を絞めるがごとく、じわじわと障害の溝が深まっていきます・・・。

 

・第15章

 子育て困難の第二グループについてです。社会全体の子育てのレベルが上がったことによって、その子育てのレベルについていけない親たちの子育てになります。

第一グループでは問題が抽象的で親子・社会と子との相関的な絡みでしたが、第二グループは具体的でわかりやすいです。

すなわち、1)貧困、2)家族間の不和(離婚など)、3)疾病(親)、4)子供の障害、5)子育ての不得手さ(親もASD的)です。具体的でわかりやすい問題ですが、その解決はものすごく・・・難しい。

解説は多く語らずとも、伝わったと思います。そしてこの問題は世代を超えて引き継がれます。この第二グループには社会全体の支援が必要なのは言うまでもありません。

そしてこの章では被虐待児の特異な心理的な問題と行動があります。他者への(有意識か無意識かはわかりませんが)操作的な態度、ほとんど無意識の試し行為、拙い愛情希求、はっきりとした攻撃など・・・。覚醒水準の上下による障害についても語られています。さらに、被虐待児なうえにASDの特徴を兼ねていれば・・・。問題は複雑化していきます。原因はシンプルなんですが。

 

・第16章

最後に思春期について。この章は学校という社会化の話やおとなという心理的・身体的な葛藤、モラトリアム期についての話になります。ほとんどテーマは学校の部分がメインで、いじめなどについての記載です。今までの章を把握していれば、読むに易い部分です。

 

以上。感想その2でも、9000字くらいでした。合わせて15000字ですね。長文すぎて申し訳ありません。少しでも興味が出た方は、ぜひ。おそらく「看護のための精神医学」とならんで古典とされ、読み継がれていく一冊になることでしょう。

 

子どものための精神医学

子どものための精神医学

 

 

子どものための精神医学 滝川一廣 感想 その1

 

子どものための精神医学

子どものための精神医学

 

発売日すぐに買って、日々手を出して、やっと読み終わりました。ちょうど1ヶ月位かかりました。第2刷も決定したそうですね。大人気です。

内容が難しくて時間がかかったのではなくて、内容ひとつひとつが腑に落ちて考えを巡らせながら読んでいたため時間がかかりました。それくらい学びの深まりがある良著でした。

子どものための、とは銘打たれていますが、児童精神・思春期精神の領域以外の人もぜひ読んで下さい。特に発達障害の方々に対する手応え感が格段に変わると思います。また、個人的には育児書としても読んでもらえたら親としての軸がぶれないで済むような気もします。ほかにも、学校の先生(特に小中学校)にも読んでもらえたら、支援の理解につながるんじゃないかなと思います。

今まで「精神科の本って何読めばいいの?」と言われたら中井久夫先生の「看護のための精神医学」か春日武彦先生の「援助者必携 はじめての精神科」を薦めていましたが、発達障害や思春期関係で決定版となるような著書は寡聞にして知らず、おすすめできませんでした。これからは本著を「発達障害ならこれだよ」と合わせて薦めるようになると思います。

ちなみにまだ紹介してませんでしたが、中井久夫先生の「看護のための精神医学」は必読だと思います。また紹介しますね。

看護のための精神医学 第2版

看護のための精神医学 第2版

 

 

 本著の構成や内容についてくわしくはアマゾンに載っているので見てもらえればいいのかなと思いますので省略します。本著は「素手で読める児童精神医学の基本書」と銘打たれており、また上記中井久夫医師より「あの本(注釈:看護のための精神医学)には子どものことが書いていない。そこを君に」と伝えられ、書き上げられています。そういった使命をもって世に出された本、ということなんです。

今回は各章に分けて感想を述べていこうと思います。

 

・第1章

第1章では、こころをどうとらえるかについて述べられており、(素手で読める本なのでそこから丁寧に書いてあります)精神医学にとってこころは取り扱わず、脳の障害と捉え、客体的な物質として考える「生物主義」という立場に立っていると明示します。しかしながらそれは科学であり、たどり着かない範囲があるのが事実。哲学では「間主観性」があり科学ではたどり着かない領域を考えている、と紹介されています。

 

・第2章

第2章では、精神医学を歴史的に読み取り、「生物主義」という立場を立つに至った経緯が述べられています。人間が時に行う非合理的な行動についてどうとらえるかが初期の頃問題となっていました。すなわちA)犯罪者という存在、B)子どもという存在、C)近代以前は「狂気」という概念でとらえられていた存在の3つです。このCが医療の対象とされ、研究されたのが精神医学のはじまりでした。

本著ではBという部分が主体ですが、子どもは未熟ゆえに非合理的な行動を取ると考えられていました。成長によってその非合理的な行動は減っていくため、教育でアプローチするのですが、それでは不十分な子どもがいます。Cと絡めてこれが本著での取扱部分になる部分となるわけです。

Cのアプローチにも、2種類あります。一つは前出の「生物主義」で、正統精神医学と呼ばれています。もう一つが哲学的部分にウェイトを置いた力動精神医学と呼ばれています。このように精神医学と一言で呼んでも、2派いることがわかります。

 

・第3章

第3章では分類と診断について語られます。今では精神障害等はDSM-V分類またはICD-10分類にて分類と診断がされることがほとんどですが、伝統的な分類として外因性、心因性、内因性という考え方も紹介されています。

御存知の通りDSM分類もICD-10分類も単なるチェックリストであり、統計的な操作がされているものになります。

宮内倫也先生も述べていますが、「DSMによって”統合失調症”とされた疾患は”症候群”なのです。先達が築き上げた細かな分類を棚上げにしているので、色んな疾患がこの”統合失調症”に含まれております。」とある通り、おおよその分類になっているのが現状での精神科での診断です。

感染症結核菌が結核を引き起こす、ヘルペスウィルスが帯状疱疹を引き起こす、というのとは違い、原因と結果が一つで結びついていないのが精神科の特徴で、それゆえに同じ患者さんに対して、人によって「非定型精神病だな」「統合失調症だな」「躁状態では?」となっては研究する際不便なのでまとめちゃってるだけです。

だから診断=治療方法が唯一確実にある、とは結びつかないのも精神科の特徴です。

じゃあ診断ってなによ?ってなるんですが、本著では納得の行く答えが提示されていますので引用します。

すなわち診断名とは、子どもの内にある何かの呼び名ではなく、子どもの外につくられてある人工の「引き出し」の呼び名を意味する。たとえば、A君を「自閉症」と診断するのは、Aくんが自閉症という存在だということではない。ただ、Aくんの行動のあり方のある部分を選び出してひとまとめにして精神医学の分類の引き出しに入れるなら「自閉症」とラベルした引き出しに収まるということである。(中略)

言葉の世界を生きている私たちにとって「名前」がもつ力は大きい。名前を知ることがそれを知ることの第一歩で、名前が与えられることによってそれをまわりと分かちあうことができるようになる。だから名づけには納得や安心をもたらす力がある。診断とはその納得と安心のための「医学的名づけ」にほかならず、それを求めて診察室のドアをたたく子どもや家族は少なくない。それに応えることは、だいじなことである。

 診断の力はWRAPをはじめる!でも文章があります。今やWRAPを伝道する一人となっている増川ねてる氏ですが、19歳のとき「それは精神病かもしれません」と言われたときの初めて抱いた感情は「うれしさ」でした、と語られています。なんとも説明のつかないことに現実として認めてくれる人がいることはとてもホッとすることだった、と述べられています。WRAPを始める!―精神科看護師とのWRAP入門【リカバリーのキーコンセプトと元気に役立つ道具箱編】より、(p43)

 

 しかし、と「子どものための~」では語りが続きます。

「名前」はおろそかにできないけれども、診断名は診療のいわば入場券に過ぎない。いったん入場すればチケットはただの紙片になるのに似て、いよいよ診療がはじまれば、診断名よりも、その子その子に即した理解や援助こそが本人やまわりにとって必要なものとなる。そこでは名前ではなく、その子がどういう子なのか、どんな状況におかれているのか、まわりの心配はどこにあるのか、だからどうすればよいのか、等々の個別的かつ具体的な判断が求められる。また、この判断は治療が進むにつれ(あるいはうまく進まぬにつれ)、変化や修正がなされていかねばならない。このような把握が、広い意味での診断である。分類という意味での「診断diagnosis」ではなく、理解という意味での「診断formulation」で、これを本人や家族、その子とかかわる人たちと分かち合っていくことが診療なのである。そして、できればその分かちあい自体が、治療性をはらんでいる「診断formulation」であることが望ましい。

と。あくまでもチケットであり、そのもの自体に価値を置いていくことよりも、個別的な関わりが大切と語られています。事実、精神病は物理的に取り除いたり化学物質でいじったりして「根治」するものはまだ明らかにされていませんから、その人の生きづらさにアプローチすることが大切ですね。

上記であげた増川ねてる氏の著書でも、診断されたことに対してはとてもホッとすることだった、とは語られていますが、引き続いて根本治療は、今の医学では不可能ということを知りショックと葛藤が始まっています。なお、ねてる氏はその後WRAPと出会ってリカバリーしていきます。詳しくは過去記事をご参照ください。

sakatie.hatenablog.com

・第4章

第4章「精神発達」をどうとらえるか、第5章ピアジェの発達論、第6章フロイトの発達論と展開していきます。

著者は精神発達を認識の発達と関係の発達が2つの軸に影響され、ベクトル的に進んでいくものと説明しています。一応、かんたんな図式を描いてみたので載せときます。

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精神発達はZ軸のベクトルを向いて成長しており、X軸の関係の発達(フロイト的)とY軸の認識の発達(ピアジェ的)に影響を受けています。

両軸ともに偏りなく十分に成長したものが定型領域であり、いわゆる「普通の人」となります。

両軸ともに偏りなく成長が弱いものを「自閉症領域」と呼びます。

認識の発達に成長が弱いものを「知的領域」と呼び、関係の発達に成長が弱いものを「アスペルガー領域」と呼んでいます。

いま、アスペルガー(Asperger Disorder/Syndrome:AD/AS)や広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders:PDD)などもろもろの名前が自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder:ASD)に統一されようとしています。その理由は上記の図です。どれも明確な領域の違いはなく、お互いに関係しているからなんですね。なお精神遅滞(Mental Retardation:MR)も広い意味ではASDということになりますね。MRは他の障害と比較するとまだ進んでいる方なので、ASDという診断よりかはMRと診断されるような印象ですが。

 

大切なことです。このASDですが、障害とするかどうかは社会によって変動します。私たちはこころだけで、個人だけで成り立っているものではなく、その外の世界、社会的・共同的なひろがりとつながりによってはじめて成り立っているからです。

その社会における文化のあり方しだいで、精神発達のあり方は様々なヴァリエーションを持つと考えられる。時代や文化を超えて万古不易の精神発達はありえない。したがって、時代や文化の差を超えて普遍的な発達論、つまり発達論の決定版もありえないと考えられる。(中略)

だから、子どもは本来(正しくは)こう育つという精神発達、いわゆる「正常発達」なるものがこの世に存在するわけではない。ふつう正常発達と呼ばれるものは、その次代と社会の中で、そこでもっとも一般的な養育形態を通して育った子どもたちをたくさん集めて平均をとれば、どんな発達のパターン(定型)が取り出せるかというものに過ぎない。つまり、精神発達そのものに普遍的な決定版は存在しないのである。

だから、ASDなので足りてない!普通じゃない!ではないと思うんです。患者さんの中でもPDD等と診断された方はいます。確かに生きづらそうです。ですがその点を除けば普通の人です。ASDでも星はキレイで肉はウマイんです。定型との比較で不足があると思うのではなく、あなたはあなたなんじゃないでしょうか。それを踏まえて、どうしていくか話し合いたい。と、私は考えて日々看護をしています。

 

・第5章

第5章ではピアジェの発達論(認識の発達)について語られます。細かいことですが、言葉の定義として「認知=物があるということがわかること」「認識=概念的に物についてわかること」と述べられています。なぜわざわざそう定義しているかというと、物事に対しての理解度がどこまで到達しているかがわかると、関わり方がわかるからです。CBTでもよく、一度認知のレベルに戻してから再度認識し直すという事が行われますよね。

2つの違いを知ることは関わり方を変えることができるということにつながります。先に進んで第10章からの引用ですが、

認識発達のおくれは、ものごとの判断やコミュニケーションや技能習得に混乱をもたらすだけではない。世界を意味や約束を通してほかの人びとと分かちあうこと、人びとのもつ共同世界へ参入することの困難をもたらす。これはまわりの人達が当然のものとして共有しあい享受しあっている世界に入りきれないまま生きねばならぬことを意味している。

ここに、認識の発達におくれをもつ者固有の体験世界がある。A領域の子どもたち(注釈:知的領域のこと)は、たとえ関係の発達におくれはなくても、この一点で私たちの知らない独特の孤独や寂しさを抱えている。この子どもたちの逸脱的とみられる行動、いわゆる問題行動のわけを探っていくと、不安や緊張の問題に加え、この孤独の問題に行きあたる。

とあります。わからないから、社会に参加できないんです。社会に参加できないから、独特の孤独や寂しさが彼ら・彼女らにはあるということです。わからないということ、認識ができないということは単純に技能的に遅れを持つだけではなく、精神にも影響が及ぼされるということです。その仕組を理解するために、認知と認識の違いが述べられています。

 ピアジェの発達論は「同化と調節」「知性の発達」「シェマ(図式や仕組みといった意味)」を踏まえ、1)感覚運動期、2)前操作期、3)具体的操作期、4)形式的操作期と4つに分けて考えられている、と内容について噛み砕いて述べられており、ピアジェはテーマとして「認識」を取り扱っている、と著者は解説されています。

 

 ・第6章

発達を語る上でピアジェは大いに参考になりますが、他者との関係を築く部分においては不十分でした。あくまでもピアジェの理論では物事を理解する流れが理解できるにとどまっています。(それでも圧倒的にすごいことなんですが)

そこでフロイトの発達論です。

フロイトの活躍する時代は性倒錯が関心を集めていました。生殖という考え方からすれば非合理的です。しかも、そこを除けばごく普通の人間。なんでだ、というところからフロイトの研究は始まり、小児性愛と呼ばれる概念が生まれます。

1・乳幼児を育てている親は思わず我が子を抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られ、実際そうします。これ抜きの子育ては考えられません。しかも親の一方的な思い入れではなく、子どもが機嫌を直したり、成長につれ自らそれを求めてくるなど、乳幼児の側にも愛撫的な関わりへの強い欲求がみてとれる。

2・成人の性愛的な生活においても同じく抱きしめたり頬ずりしたりキスしたい促しに駆られそうする。

どちらも、ふたりのどちらからとはいえない双方向性・一体性を持っている。この2者が同じ力の働きだとフロイトは気づき、大人のそれと区別するため小児性愛と名付けました。(でもすごいインパクトですね・・・)

この他者への希求をフロイトはエロスと呼び、その原動力をリビドーと名づけました。

そして年齢によってリビドーの分類をおこなってます。それがかの有名な1)口唇期、2)肛門期、3)男根期、4)潜在期、5)性器期という分類です。(すごい名前ですね)

親子の交流のチャンネルとしての口唇期(授乳)、社会的存在への第一歩としての肛門期(トイレトレーニング)、性差に気づき葛藤する男根期(父母との三角関係)、家の外に目が向く潜在期、そして成人性愛の性器期と、他者との関係を常に踏まえて関係の発達が完成すると考えられています。

名前こそすごいインパクトのあるフロイトですが、関係の能力がどう発達するかという考えから読み解けば、非常にわかりやすいものになっていますね。

 

ここまでで本著は約100ページ。そして本記事は6千字を超えています。一旦切って、後日引き続いての感想を書いていきたいと思います。