精神科看護「まごころ草とばいきん草」

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精神科看護に関する自分なりの覚書

リカバリーの学校の教科書 感想

 

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

 

 自主的にリカバリーについての学び強化期間です。まずは当事者向けのわかりやすくまとめられているものから手をつけています。

 

リカバリーとは新風です。

今まで問題解決型の看護が提供されてきました。それはすなわちその人の病気等から悪い点を探し出し、それを解決するという方法です。その方法によって私たち看護師は常に問題探し、あら捜しをするような発想になってしまっています。短期的・治療可能な病気ならそれは効率的ですが、精神病等の慢性的な疾患に関しては非効果的であることが研究結果により明らかになっています。

リカバリー視点とは、その全く逆です。よりよく生きるためにどうするかを探す方法です。また、その主導権はその人本人が持っており、看護師は直接指導したり強制したりすることは出来ません。

 

例えるなら、アンパンマンのキャラにいるロールパンナです。彼女は出生がややこしく、赤いハートと青いハートと2つの心で常に揺れ動いています。ばいきんまんの影響が強くなるとアンパンマンを敵とみなし皆を攻撃してきますし、メロンパンナちゃんの影響が強くなると良い心を取り戻し、綺麗なものを綺麗と感じられるようになります。

もし彼女を問題解決型の視点で関わったらどうなるでしょうか。青いハートを取り除こうとされたり、状態が乱れた時にどうするかのケアプランを立てられてしまうのではないでしょうか。そして彼女が赤いハートでいる時の事は特に評価されないのではないでしょうか。

彼女をリカバリー視点で見れば、全く変わってきます。「いつかはメロンパンナちゃんと一緒に暮らしたい」と夢を見て、何の為に生きているかはわからないながらもくらやみ谷で人に迷惑をかけないようにそっと暮らしています。時に勇気の花を育て上げたり、生きることに悩むドーリィというキャラクターを悩みから救い出したりしています。もちろん青いハートが優位になり人を傷つけることをしてしまうこともありますが、それは彼女の本質ではありませんよね。

 

閑話休題。本著に戻ります。

本著は100ページくらいで短く簡単にまとめられていることと、当事者の声がそのままのっていること、見開きで1つのテーマを語られていること、大事なことがツイッターのつぶやきのように一言でまとめられていることが読みやすく、とても気軽でお勧めできます。

内容としてもロールモデルを持つ、からストレングスモデル、WRAP、リカバリーの哲学的部分やIPS(Individual Placement and Support/個別就労支援)まで幅広く解説されています。

またWRAPやリカバリーシートと言ったワークも複数あり、実際に手を動かしながら取り組むという点が教科書らしい、工夫されたいい部分と思います。

 

ロールモデルを持つこと、という部分では何人ものリカバリーをされている当事者さんの声が乗せられています。8年間入院していたが様々に仕事を行い北海道から九州まで日本全国を飛び回る程の活動をされている方や、WRAPファシリテーターとなり今では人のためにリカバリーを伝えている人など。紆余曲折はありながらも見事に自分のやりたいことを行えている人です。

その人たちは、特別だったからそうなったのでしょうか。違うように思います。自分のしたいことを勇気と責任を持って前に進んでやっていったのではないでしょうか。

 

本著よりリカバリーについての言葉を引用します。

リカバリーは、病気と闘うとか負けないとか、そういうことじゃない。疾患のことは脇に置いて、人として自分の人生をいかに過ごすか、自分で考え、行動している状態だ。そして「あの人なら私のことをわかってくれるはず」と思える人をもっている。小さくても人から期待されるような役割と目標があったり、自分の目的があり、達成感を味わっている。リカバリーとは、こんな人の歩みだ。

疾患の事は脇において、という点が本当に素晴らしいと思います。精神疾患があるからとはいえ、病気=その人ではないんですよね。統合失調症の○○さん、じゃなくて、マジックの上手い○○さんだし、勉学に励む△△さん、ですよね。

そして本著は引き続いて精神疾患がありながらも充実した人生を送る人の5つの特徴を説明しています。

1)疾患と異なる自己定義

2)生活の自己管理感

3)生きる目的

4)役割・責任・達成感

5)有意義な人間関係

それぞれについて詳しい説明は省きますが総括して、自分の夢を持ったり目標に向かって生きがいを感じたり、人間関係を豊かにするといった人生や社会に対してより積極的な態度を持つということです。

当事者の方が、本著を媒体にして、自分のリカバリーに向かう能力を高める(エンパワメントする)事が出来れば最も素晴らしいことです。ただ、全ての人がすぐにリカバリー視点が出来るかといったら、難しいところがあるのは事実だと思います。なぜなら、健常者と言われている人たちでも全員が”生きる目的”が持ててはいないんじゃないでしょうか。逆説的に言えば、私たち看護師もこのリカバリー視点は自らを高める為に使えると思います。

そういった意味で、あたかも私たちが当事者になった思いで本著を読んでいく事に意義があるのではないでしょうか。

 

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

リカバリーの学校の教科書: 精神疾患があっても充実した人生を送れます!

 

 

中動態の世界 意思と責任の考古学(シリーズケアをひらく) 國分功一郎 感想

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

シリーズケアをひらくから出ているので、読みやすい本かと思っていたら本格哲学書でした。さらに言語学的基礎体力も要求されて、中々にハードでした。すごく面白かったです。

どうも京大・東大の大学生協で上位2位ぐらいの売り上げを記録しているようですね。

  ちなみにすごい横道にそれますが、各大学生協での本の売り上げランキングが公開されています。やはり大学によって雰囲気が違いますね。

www.univcoop.or.jp

 

 

本著を簡単にまとめるよう試してみます。

 

「する」と「される」の、能動態と受動態だけでは説明できない事ってありますね。カツアゲとか。銃を突きつけられてお金を要求されたら、強制的にお金を出している点では受動的だけど、結果お金を出すというところに従った点は能動的。カツアゲされるのって能動なのか受動なのか・・・。

そこで「中動態」が出現。「中動態」はその行為がやった人に帰属する事を指していて、例えば彼は馬をつなぎから外す、という言葉。彼が、そのまま馬に乗って出かけるなら中動態。彼は召使で、主人に馬を渡すなら能動態になります。なぜなら、自分の為の行為ではないから。

行為の「する」「される」には責任や意思が絡んでいるけれども、中動態では行為の「自由」と「強制」の度合いが絡んできます。

こういった中動態という概念がわかると、今までなんとなく分かりえなかった部分が理解できるようになっていきます。例えば、「する」「される」に二分される理解は、常に責任の所在はどこか追及しているという事がわかります。中動態で理解出来れば、物事を責任がどうこうではなく、状態がどうこうで考えることができるようになります。

物事を理解したり人に伝えたりするには言語を使用します。しかしその言語もどこかバイアスがかかっているかもしれません。「する」「される」の二分される理解では責任の所在を明らかにする言語というバイアスがかかります。能動態と中動態というものさしは、「自由」と「強制」の度合いを測るサーチライトになり、それは責任という部分では照らされていなかった本質が眠っている部分を鮮やかに照らし、物事の理解を深めるかもしれません。

そこから臨床に発展させるとするなら、例えば介護する/介護されるという物事。これも中動態での解釈を導入すれば自由度と強制度の度合いで考えていくことは出来るんじゃないでしょうか。また、本著冒頭でもあったアディクション。確かにお酒を求めて呑んでしまったのは事実ですが、そうせざるを得なかった文脈を加味すれば、強制度の度合いが高かった(中動態に対しての能動的であった)のではないか?ならば、責任を追及する形や意思を強く持てという立ち位置は不適切なのが明らか。それを踏まえて、どうかかわっていくかを建設的に考えることが出来るようになる・・・。それが、中動態という概念の可能性ではないでしょうか。

 

(970文字)・・・という感じでしょうか。自分の力不足を痛感します。

もちろん本著は上記の私が書いた駄文なんかでは拾いきれないほど沢山の慧眼が光ってます。

能動態と受動態には突然意思が現れること。

中動態の起源をめぐり紀元前の古代ギリシャ哲学にまで遡りある発見をすること。

ハンナ・アレントを補助線に描く中動態の概念に意思と責任について。

ハイデガーの放下とは。

スピノザのあらわす自由について。

そして最後にビリーバッドを題材に今までの振り返り。

上の駄文ではなく、原著でしっかりと概念を理解するほうが確実です。ぜひ興味がわいた方は読んでみてください。

 

冒頭のほうですぐに明らかになっていく事実なんですが、意思というものはあるんだかないんだかあやふやなんですね。

1980年代の生理学者ベンジャミン・リベットが行った実験によると、被験者に好きなタイミングで手首を曲げてもらい、その際の脳の動きを電位変化を通じて観測するということを行った結果、人間が実際に行為する0.5秒前に脳は関連する活動を開始しているが、被験者が実際に行為をしようと思ったのは0.4秒前と、必ずずれが生じることが分かっています。

これはどういうことかというと、意思→脳伝達→行為と、意思が初めにあると思われていましたが、実験によって脳伝達→意思→行為と、意思を持つ前に既に脳伝達が始まっていることが分かったということです。私たちの持つ(と思っている)”意思”って何なんでしょうね。

そんな意思を持って何かを行ったかどうかを常に責任追及される言語、たまったもんじゃないです。意思という概念自体あやふやなうえ、意思は常に流動的です。変化を伴っているものであるから責任追及なんて難しい。でも、責任追及をしなければ社会が成り立たない。法によって私たちを律しているから、その必要がある。・・・そんな必要から駆られて「する」「される」という能動/受動は生まれたのかもしれませんね。

 

また、本著は題材の面白さももちろんですが、その論の運びが非常にわくわくさせる流れになっています。

例えば第1章では、問題提起から始まり、「する」「される」について考えていきます。その中で「する」と「される」の事柄には意思が介在していることが分かっていきます。そしてこの意思とは、構文によって現れてくることが明らかになっていきます。「私が自分の手をあげる」から、「私の手があがる」を引くとどうなるか。残るものは意思か、何もないのか。何もないはずの何かを思い描かずにいられないのか。そこから中動態に答えを求めていきます。かつてあった中動態。しかもそれは日常的に用いられている言語の中に存在していた。なぜそれは消えていったのか。中動態のある世界とはいかなるものか?

・・・と、こんな感じに展開していき、第2章に引き継がれていきます。この運びはまるでテレビの引きみたいで、分かりやすく煽ってきます。また助かるのが、必ず次章のはじめに、それまでの振り返りを簡単に乗せてもらえている点。繰り返し読むのにありがたいです。

 

この本を読むことによって臨床的にも、前出の通りする/されるにとどまらない考え方・捉え方が出来るようになりますし、直接的にもスピノザハイデガーなど哲学書を読む時の補助にもなっていきます。いつか読んでみてはどうでしょうか。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)