精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護に関する自分なりの覚書

看護研究のテーマなににしよう

もう1ヶ月経ってるんですか。驚きました。

 

今回はただの呟きです。

来年度になるとおそらく看護研究が始まると思うのですが、今先取りで研究テーマを何にしようか、って考えています。

 

近頃の病棟では身体的暴力や、セクシャルハラスメントパワーハラスメントと言った問題が浮上しています。特に助手に対する差別(当人は区別といっています)がひどい。

今の時代、看護師と助手は協働であることが当たり前だと思うので、何とも言えない気持ちになります。

当然そういったことがあったときには声を上げるものですが、1年目だし、看護部だし、なかなか難しい・・・。

うちの病棟だと、身体的暴力があったときにはグリーフワークを行うことが決まりとなっているのですが、いまいち十分に行われている実感がありません。病棟としての支援体制という点から、不十分に感じています。また実際問題、何が暴力なのか?十分に理解できていない私の問題もあります。

他の病棟だと残念ながら、各個人の努力に頼っている点が非常に強く、各々がやるもので病棟としてのフォローはないという雰囲気があると聞いています。

 

そういったことから、【職場環境】【身体暴力】【精神暴力】【協働】といったキーワードと、それに対するフォロー体制の構築についてと言った点が気になっています。

 

それと同時に、リカバリーの視点も気になっています。【WRAP】【病棟での心理教育】ということもテーマとしてあげていいのかなと思います。時々受け持ちさんに対して、WRAP的視点で「元気になる道具箱」であったりした話を少しして、自分の道具箱もシェアして、いいですよねって話をしているんですが、なかなか好印象なことが多いです。もちろん、誰しも彼しもいつでもWRAPの話を触れないんですが、こう、なんというか、WRAPの話が通りそうな人っていう様相があって、そういった人にちょろっと説明するといいんですよね。この、なんとも言えない様相について考えても面白いかもしれません。

ただ、これに関しては例えばリカバリー委員になるであるとか、そういったことを踏まえてからでもいいのかなとは思っていますが・・・。

 

クリティカルパス】もどうなんでしょうね。気になります。うちのパスはパス本来の意味をなしていないただのチェックリストなので、あんまり意味ないんですよね・・・。

 

【タバコ】も個人的な好き嫌いから、気になります。当院は残念ながらタバコが吸える病院なので。

 

【集団教育】については、自分の担当でもあるのでいいのかなとは思いますが、どうも、先輩と研究もかぶるし・・・。イマイチピンとは来てません。

 

それと、大事なことを忘れてました。私は急性期総合内科で数年間勤務していたので、言ってみれば精神科を外から見る視点が、まだ生きています。

それを活用して【精神科特有の技術】などといった、専門性を外から観察したという話でも面白いかもしれませんね。

すごく毎日感じるのですが、精神科の看護は奥が深く、とても難しいです。

あるときは友人のように優しく楽しくしているかと思えば、あるときは厳しくも慈しむ母の顔を見せる時もあります。特定の人に対して、【枠組み】という概念でいろいろな話を決めたり、考えたりしています。ときには関与せず見守ることもありますし、看護師が感じた感情を”そのまま”お返しして、揺さぶることもあります。

面接技法も人によって様々。その人それぞれのキャラクターを活用しています。ある看護師は厳しく律する人ですし、ある人は楽しくユーモアに満ちた関わりをします。一緒に悩んだり揺れたりする人もいれば、淡々と物事を決める人もいます。ふわふわした印象の看護師もいれば、キーンと冷たい雰囲気をまとった看護師もいます。それぞれが思ったような看護が行われて、それが話し合って共有され、治療に向かっていきます。

その中で患者さんも治療に参加してもらうわけですが、その引き出し方も様々。

かんたんな技法として、例えばルート確保の技術やレスピの取扱のような普遍化したマニュアルは作れないんだろうなと思いますし、業務の見える化は難しいんだろうなと思います。その、なんとも言えないゆとりというか、余裕というか、隙というか。車で言うハンドルの遊びのような部分がとても大事なんだろうなとは思うのですが、これをアクティブインタビューするととても面白いんじゃないかと思います。現象学的にアプローチしてもいいんだろうなと思います。

 

スティグマ】ですが、今まで単にそういうものがあり、それが生きる上での障害になるとだけ思っていたのです。

しかしながらもしかすると、自分の人生の主軸を病気や障害などに奪われたという考え方もできるんじゃないかと思います。

なぜならば、病気や障害は事実であり、それに意味をなしているのは社会と考えています。その社会を選択するのは、最終的に自分なのではないかと思います。

主軸を取り戻す、自分の取扱説明書を作る、などを行えば、スティグマとむきあえるのではないかなと、なんとなく思いました。

きちんと調べれば何かわかるかもしれません。

 

そんな感じのつぶやきでした。

 

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2017年5月2日追記

この記事を参照にされる方が多くありがたい話です。

後日、看護研究に関する自己学習ノートを展開していますので良ければあわせてどうぞ。

 

sakatie.hatenablog.com