精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護「まごころ草とばいきん草」

精神科看護に関する自分なりの覚書

武井麻子 感情と看護 感想

 

 

感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく)

感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく)

 

 やっと読み終えました。読む時間がなかなかなくて1ヶ月くらいかかってしまいました。

個人的な感想など備忘録的に書いていきます。

 

→序章

マスメディアの世界で紹介される看護婦像は、あいも変わらず、人間の生と死のドラマの真っ只中で、過酷な労働条件に耐え、献身的に働くしっかり者の看護婦か、失敗ばかりしながらも、いつも明るくめげない看護婦、ちょっとおっちょこちょいだけれどどこか憎めない看護婦たちばかりです。いずれも、「人々に愛される看護婦たち」というわけです。

今もそうですよね。看護師=上記のどちらかのイメージかと思います。一方、男性看護師に関してもやはり同じような、「優しくて頼りがいのある」というイメージがあるのではないでしょうか。簡単なイメージがあるというのは良い面もありますが、その枠にはまってしまう面もありますよね。

 

→1 看護の仕事

看護という仕事の原点は、こうした日常生活上のこまごまとしたお世話にあります。ナイチンゲールクリミア戦争時、傷つき病んだ兵士たちに献身的におこなった看護は、こうした世話が中心でした。そうして、兵士たちの環境をより健全なものにし、自然の治癒力を高めたのでした。(中略)介助が必要な患者相手の身の回りの世話は、煩雑で時間がかかります。(略)ときには嫌がるのをなだめすかしながらの格闘となることもあります。(略)「一度やりましたから、もういいです」とはいえないのです。繰り返し何度もやらなければならない事ばかりですし、終わりということがありません。しかも、こうしたケアはやって当たり前で、やったからといってとくべつに評価されることもないのです。まさにシャドウ・ワークです。

看護という仕事は時代を経て複雑化・専門化・分担化されていっているようですね。正直、医療関係ではない人に「ぶっちゃけ看護って何する仕事?」って言われたら、答えにくいなあと思っています。著者は後述する場所で、その答えの一つを出されています。とても、感心させられる言葉で表現されていて膝を打ちました。

 

緊急事態が発生すると、「待ってました」とばかりに妙に張り切ってしまうところがあります。身体中にアドレナリンが駆けめぐり、自動操縦モードに切り替わります。精神科などでは、ふだん変わりばえのしない日常生活の援助が中心の業務ばかりやっていると、こんなときでなければ看護婦としての本当の出番がないように感じてしまうのです。慢性疾患の患者を担当している看護婦にもそういうところがあるのではないでしょうか。

これは、著者の「看護って何する仕事?」の答えではありません。ですが臨床で度々感じやすい「これぞ看護」って部分かなあと思います。個人的にですが、私はどうも緊急事態が苦手です。一般科でしごかれて、確かにこの”自動操縦モード”には入るように教育されていますが、やはり苦手。

 

患者が痛みを訴えるときにすぐに指示の痛み止めを与えるべきか、様子を見て話を聞いてあげるだけで済む人なのか、それとも医師に連絡してべつの指示を得る必要があるのか、といった状況判断を看護婦はしなければなりません。そのときの対応いかんで、ますます患者のいらだちを募らせ、関係をこじらせてしまうこともあります。この状況判断そのものが看護技術のひとつなのです。(中略)こうした「状況を読む」という技術は、臨床の場ではたいへん重要なものです。常にこれまでのことを頭に入れたうえで、先を見越していなければなりません。あらゆる条件を考慮に入れて、いつ、どんなとき、何をどのようにすればよいのか、その状況や文脈に応じて瞬時のうちに判断しなければならないのです。

本当にその通りだと思います。これが、看護師が看護師である専門性であり、看護の仕事なのだと思います。また、この判断には責任が伴います。さらにこの判断は、マニュアル化のできない有機的な問題が多くはらんでいます。例えばその患者さんの文脈的な問題であったり、病棟全体の雰囲気・様子であったり、場合によっては主治医が誰かによっても変わってきます。画一的には行えない、”技術”に該当するのではないかと思っています。

 

→2 感情労働としての看護

 精神科では、ほとんどの患者が、かつて人との関係のなかで繰り返し何度もひどく傷ついた体験をもち、人に対して信頼感や安心感をもてずに悩んでいました。そうした患者にとって、現実は迫害的で不安に満ち満ちています。(中略)また、患者の生い立ちや病気の体験談を聞いて、耳を覆いたくなったり、なんともやるせない気持ちになったりすることもありました。つらい気持ちが伝わってくると同時に、何もしてあげられない自分が、いかにも無力でふがいなく思えるのです。

看護師が患者さんの、感情の受け皿となっているという記述になります。近頃よく言われる感情労働とは、単に感情を使った仕事という意味ではなく、双方の感情が関わりの中で大きく影響し、また仕事という意味で価値を見出す部分であるというものなのかなと思います。それを労働、売りとしているわけですから、疲弊もします。看護師は、感情労働によって自身が疲弊するものであるとここで明言されています。「人々に愛される看護婦たち」は、そういうキャラクターでもなんでもなく、一人の人間なわけです。

 

(引用文なし、感情労働と感情規則、そして感情作業について)

また著者は同文脈において感情労働を行う上で看護婦像にある感情をのみ表出するべきであるという感情規則がある事を指摘し、また”不適切な”感情が看護婦に現れた場合、感情作業によってその感情をコントロールするべきであるという不文律があると指摘しています。

事実、感情的に好きだ嫌いだと言いながら看護をされれば、患者さんとしてはたまったものではありません。感情作業は必要な行為と言えます。それと同時に、看護師側の感情作業を行っている事実を認め、何かしらのサポート体制は必要であるとも言えるのではないでしょうか。

特に日本ではその部分が希薄なのではないでしょうか。しんどいときにしんどいって、なかなか言えませんよね。

 

 (引用文なし、感情管理の方法・・・/表層演技と深層演技)

表層演技とは、本当の感情を隠して表向きの顔を繕う感情作業の事です。

深層演技とは、表層演技の際、実際に自分自身をそう変身させる感情作業の事です。

本当の感情を隠して看護をしている!?と、戸惑うかもしれません。しかしながらただの一人間ですから、好き嫌いはありますし、得意不得意、得手苦手はあります。

著者は例として「本当は血を見ることもできない看護師」をあげ、彼が白衣をまとい、IDカードをチェックする作業を行うことで「表層演技」をまとい、あわせて救急に携わる「勇敢な看護師」となる「深層演技」を行うとして例を挙げています。

もちろん、感情管理は行うその前提として「良いことをする」が前提にあるのは言うまでもありませんが・・・。

米国の『心理社会的援助の看護マニュアル』には、怒りを示す患者に対し、「患者の行動が自分に個人的に向けられていると解釈すべきではない」と明記されています。「患者にとっては看護者が権威を代表する存在であるために、そのような態度をとるのだということをこころに留めておく必要がある」というのです。そして「患者に罵倒されたときにも、感情的に反応することは控える」と書かれています。

とあり、感情に対してどのように関わるかということが明記され、マニュアル化されています。分かりやすく、良いと思います。対してあまり自己の感情について明文化されていないのは、日本の独特な部分なのかなと思います。それは、奥ゆかしさであったり察しの文化であったりと表現することもできますが、自己分析が不十分であるとも表現することはできるのではないでしょうか。または、出来る人は当たり前にできるから省略されているのかもしれませんね。

 

→4 「共感」という神話

共感という言葉が安易に使われていることが指摘され、そもそも共感とはなんでしょう?と提起されています。

その文章の中で、共感と同情の区別、感情移入との違いが記載されています。

また片方が話を続け、もう片方はそっぽを向いて話を聞かないというワークを学生に行ってもらい、その結果お互いが芽生えた感情を振り返るというものを紹介しています。その中で、話を聞いてもらえない側は抑うつ的になり、また話を聞かなかった側も罪悪感が芽生えたとあり、考察として感情はその状況に埋め込まれている物であり、ある感情は共有されているものと指摘されています。ですから、普通に話していたら普通に共感されているものだとも、提起されています。

その中であえて共感と記載する意味とは、なんでしょうか。その中にはきっと、色々な気持ちや感情がやり取りされていたに違いありません。

 

→6 看護における無意識のコミュニケーション

家族内で起こるこうしたやりとりを欺瞞(まやかし)と名づけ、分裂病の発症過程にそれが多く関与していることを示しました。例えば、娘があることに不安を感じているというのに、両親が「おまえは感じていない」と自分たちの不安から勝手に否定してしまい、それを娘に押し付けるのです。娘は徐々に追いつめられていきます。(中略)また、意図的に言葉で伝えられるメッセージと、非言語的なレベルで伝えられてくるメッセージとが互いに矛盾する場合、しかもどちらも否定的な内容である場合、人は混乱します。これは、ベイトソンが分裂病家族のコミュニケーションを研究する中で見出した、ダブルバインド(二重拘束)と呼ばれるコミュニケーションのパターンです。

また、著者は看護においてもこういった例はよくあると取り上げています。感じるものがありましたので引用していますが。その内容についてはちょっと言語化出来ないので、そのままにしておきます・・・。

 

→9 看護婦という生き方

(引用なし、アダルトチルドレンのことなど・・・)

看護師という生き方を選択した人は、アダルトチルドレン的な要素がある人も中に入ると指摘しています。それは、虐待など「陽性外傷」があった場合だけでなく、愛情や養育不足といった適切な応答が与えられなかったことで負う心の傷を「陰性外傷」と呼ぶことを提唱されています。

 

→10 組織の中の看護婦

看護婦という集団を外側から見ると、それは「驚異の集団」です。なにより人数が多いのです。しかもほとんど全員が女性で占められ、トップから新人まで同じユニフォームを着て”一致団結”しているのです(諸外国では私服勤務も増えていますが)。しかも、看護婦集団はよく軍隊にたとえられるほどの厳しい規律と明確な階級組織をもっています。スタッフミーティングの場では、婦長や主任が発言してからでないと、その下のスタッフは発言しません。そして発言するときには必ずといってよいほど、「私は・・・」ではなく、「私たち看護婦は・・・」という言い方をします。(中略)これほど「われわれ意識」の高い集団も珍しいのではないでしょうか。そのため、他の職にとっては「驚異の集団」となっているのです。

外から見るということは、もう医療従事者のためできませんが、指摘されるとなるほど、と思います。「私たち看護師は・・・」という表現は確かにしますし、自分の意見を言う時には「個人的には・・・」と敢えて言ってみたりします。すごい観察眼です。

 

たとえば、ある患者に睡眠薬を与えたいと看護婦が判断したとします。すぐに当直医に電話して、睡眠薬の指示をくださいといっては失礼です。患者の状態や事情を説明して、それとなく、薬が必要だということをほのめかすのです。すると医師は「前は何が効いたかな」と尋ねます。看護婦は「前の晩にはこれこれの薬が効いた」と答えます。そこで医師は、おもむろに追加薬の指示を出すのです。これは1966年にスタインが「医師ー看護婦ゲーム」と名づけたやりとりです。

これ、今も生きてますよね?後述に現代でも様相は変化している物の形式は変わらず存在していると記載されています。2016年現在でも、これはありますよね。

だからと言ってなんだという話ではないのですが・・・。本当に観察眼に驚かされます。

 

(引用なし)精神分析家でもあったメンジーズは、ロンドンの500床の総合病院からの要請で看護組織のありかたについての研究を1960年に行いました。その結果3分の1の学生が卒業する前に辞めていく理由は、不安に耐えられないからであると見出しました。「傷つかないことに向けての組織化」のため看護組織も”傷つかないために辞めていく”とあるのです。この中でメンジーズは、多すぎる病床数は30人以上のものと指摘しています。が、現状どうでしょう。私の勤務する病棟は最大57床です。各段多いとは思っていませんでしたが、メンジーズの指摘するものの約倍ですね。大変だ・・・。

 

(文脈的に、集団で一人を見ると責任ややりがいが分散されると指摘より)

こうした事態に対する反省から、最近では一人の看護婦が一貫して患者とかかわるプライマリー・ナーシングの制度が導入されつつあります。プライマリー・ナーシングは確かに個々の看護婦に専門職としての責任と満足とを与える物ではありますが、反面、看護婦はこれまで防衛されていた不安に直面させられるという危険をはらんでいます。患者との関係の中で生まれるポジティブな感情にもネガティブな感情にも、真正面から対処しなければなりません。共感疲労にさらされることも多くなるでしょう。それだけ複雑な感情労働が強いられるのです。 また、プライマリー・ナースは、患者の治療や看護に関する重大な決定の責任を一身に追うことになります。プライマリーになると、受け持った患者の具合がよくならないことを自分の責任のように感じたり、患者の為に勤務時間が過ぎても病棟に居残ったり、休日を返上する看護婦もいます。こうした不安やストレスを支えるには、システムを変える必要があります。(中略)これまでどおりの融通の利かないシステムで業務が行われるのであれば、いたずらに看護婦を苦しめるだけになりかねません。

 ごもっともです。本当ですね。現状でも、私の勤務する病院では”プライマリに関する業務は残業として認めない”とあり、残念ながらサービス残業をしている状態です。また、ある看護師は夜勤明けの夕方にまた出勤し、夜の10時までプライマリの仕事をして帰っていったのも目撃しています。これ、なんとかなりませんかね・・・。

 

最後に中井久夫先生の言葉を引用し、「治療に不可欠なものは患者の士気である」と結んでいます。その患者の士気を支えるのには、私たち看護師の関わりも重大な要素を占めているのは明らかです。そのため、私たち看護師の感情について、もう一歩深く考える必要があるのではないでしょうか。

「感情と看護」では、280項にわたり感情と看護の重要な結びつきについて述べられています。2001年の本ですが、多くが今でも第一線で活躍できる知識ばかりです。もし興味の湧いた方は、読んでみてはいかがでしょうか。