精神科看護「まごころ草とばいきん草」

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精神科看護に関する自分なりの覚書

物語としてのケア -ナラティブ・アプローチの世界へ(シリーズケアをひらく) 野口裕二 感想

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

 

 発売が2002年と、もう15年以上前の本になるんですが、いまだに学びが多く、良い本でした。

よく、「ナラティブ」なんて語られます。NBMとか。EBMの対になる言葉ですね。

今現在、医療に構造主義の概念は入って久しいですが、本著はその走りになるものだったのかなと思います。

 

ナラティブとは、語りや物語を指す言葉で、NBMはその語りや物語をもとに治療を展開していく姿勢のことです。

EBMの行うことが、原因を見つけ出し、それを取り除いたり整えたりすること(医学モデル・生物モデル)とすると、NBMは語りから物語を導き出し、真に求められていることは何か考えていく姿勢になると思います。

外科や内科ではナラティブの概念は使いにくいような気がしますが、慢性期の病気(例えば糖尿病など)なんかでは、ナラティブは使いやすそうですね。

精神科ではばっちり合致するもので、非常に求められている概念と思います。

ナラティブという概念の十分な説明と、そこから展開する様々な治療の可能性を提示していきます。問題の外在化、無知という姿勢、リフレクティング・チーム。もしかすると、EBMに対しNBMは中動態的なのかもしれません。

 

本著は次の通り展開していきます。

1.言葉・物語・ケア
2.物語としての自己
3.物語としての病い
4.外在化とオルタナティブ・ストーリー
5.「無知」のアプローチ
6.リフレクティング・チーム
7.三つの方法
8.新しい専門性
9.ナラティヴ・コミュニティ
10.物語としてのケア

 

1.2.3章で言葉・語り・物語の定義をし、4.5.6章でナラティブ・アプローチの方向性の実際の紹介、7.8.9.10章でナラティブをさらに深く掘り進めて行っています。話の展開が順を経ており、構造主義的な難しい題材にもかかわらず、読みやすく良かったです。

 

1.2.3章について

この3章ではそもそものナラティブの定義をしていきます。

自分を語る為には、物語が必要となっていきます。自分を定義するものは物語です。言葉を使い、自分を語ることによってはじめて自分が定義されていきます。語る行為をするまでは自分についてはっきりとした定義はありません。語りを通して、自分が得られていく、そういう概念がナラティブです。

また、人と人とが出会う場所は語りと語りが出会う場でもあると展開していきます。ケアする「自分」とケアされる「自分」が出会う場所。語りと語りが出会うことによって化学反応的に物事は起こります。

 

 臨床の場は、「言葉」「語り」「物語」によって成り立っている。それは、ケアする者とされる者それぞれの「語り」が紡ぎ出される場であり、同時に、それぞれの「物語」が出会う場である。臨床の場は、ナラティヴに満ちている。したがって、ナラティヴこそが手段に据えられなければならない。援助者は、患者というひとりの人生の物語にどうかかわることができるのか、そして、援助者自身、どのようなケアの物語を生きようとするのか、これらが問われなければならない。ケアの理論は、ナラティヴの理論によって基礎づけられなくてはならないのである。

 

行為以前にナラティブは存在する、という事です。ナラティブに対しどのような態度でいるにせよ、そのことは存在します。ナラティブとは、積極的に行動する事ではなく、現象そのものを指します。そのことを認識しているか、そうでないかでその結果は大きく変わってきます。

ナラティブを自覚して関わる事で、語りの重要性やその人の人生という個別性に自然と関わることに繋がっていきます。精神科は疾患に対して仮説の科学です。ナラティブでいることは必然的に求められている事だと思います。

 

4.5.6章について

この3章は具体例を多く出し、ナラティブのもたらす効果を実証しています。

「外在化」「無知の姿勢」「リフレクティング・チーム」と章は展開していきますので、そのままの流れで感想を述べていきます。

 

「外在化」

この章では遺糞症の6歳の男の子ニックを例に問題の外在化という手法について述べられています。結論から先に言うと、「問題」そのものに対して「スニーキー・プー」と名前を付け、ニックの中に問題があるのではなく、ニックの外に問題がある事にして物事をとらえていき、見事突破口を開くことが出来ました。

問題の内在化と外在化と言うとどういうことかと言うと、問題の内在化は自分の中に何か問題がないか、やれることは無いかと考える事。問題の外在化は誰かのせいや何かのせいにするという事です。単に他人のせいにするというのならあまり治療的ではないのですが、そこに追加で問題そのものをそのまま取り扱う、と言うことをすることで治療的な”他人のせい”、=問題の外在化に成功します。

原因があるから、結果がある。問題の原因を探し、問題ごとを解決しようとする、その因果関係から脱する事、それがナラティブの力です。

ナラティブの力を借りれば、原因を突き止めることなく、問題そのものに直接かかわることが出来るようになります。従来の科学からの飛躍にたどり着くことが出来ます。これって、すごい力だと思いませんか。

「無知の姿勢」

対話をすることなく、相手を知ることはできません。どんなにプロだとしても、相手の事については全くの無知であり、対話をするほか知るすべはありません。そして、話していくうちについつい決め付けをしてしまう。専門知識があるという驕りによって。その辺りが痛烈に批判され、あくまでもナラティブの態度でいる必要性について述べられている一説がありましたので、少し長いですがそのまま引用します。

 

 ここで、「無知の姿勢」というキーワードが登場する。「無知not-knowing」とは次のようなことを意味する。それは、「セラピストの旺盛で純粋な好奇心がそのふるまいから伝わってくるような態度ないしスタンス」のことであり、「話されたことについてもっと深く知りたいという欲求」をあらわすもので、つねにクライエントに「教えてもらう」立場の事である。

 (中略)セラピストは何について「無知」なのかといえば、「クライエントの生きる世界」について無知なのである。だからこそ、「好奇心」に導かれ、「もっと深く知りたい」と思い、「教えてもらう」という姿勢になる。

 これはたしかに事実であろう。セラピストはクライエントと最初に出会ったとき、クライエントについてたしかに何も知らない。しかし、しばらくするうちに、しだいに「わかった気」になってくる。「わかった気」にさせているのは、セラピストの持つ専門知識や理論である。そして、「問題」の所在が突き止められ、その解決策が提示される。

 しかし、これは、果たして「クライエントの生きる世界」をわかったことになるのだろうか。それは単に、「クライエントの生きる世界」を専門用語の世界に「翻訳」しただけではないのか。むしろ、そのような「翻訳」によって実は、「クライエントの生きる世界」から遠ざかってしまったのではないだろうか。

 このように考えるとき、「無知の姿勢」のもつ意味がより明白になってくる。それは、「クライエントの生きる世界」を、専門家が「問題」だと思っている世界に翻訳しないだけでなく、いかなる「問題」にも翻訳しないための手段だということである。専門知は「問題」を特定しそれを解決するためにつくられている。だから、それを使うことはできないのである。

 

本当にその通りだと思います。つい私たちは問題を挙げてしまいます。以前記事にしました萱間先生の本の冒頭でも、「看護師の自動翻訳装置」と称して同じ現象について記載があります。その事実についてしっかり認識しなければなりません。 

sakatie.hatenablog.com

 

 ナラティブな態度であり続けることはそのままストレングスに着目することにも通じるといえます。勝手な判断はせず、あくまでも本人と相談をし、対話を繰り返していくこと。このことが大切と断言できます。

この章の「無知の姿勢」は決して忘れてはいけないことです。専門知はいつでも常に使うものではありません。ナラティブという方法も身につけ、選択肢を増やすことが幅の広い看護の提供につながることでしょう。

 

「リフレクティング・チーム」

患者の前で喋る言葉と、医療者同士で喋る言葉に違いが出ている事実を指摘。「表と裏」とまで表現されています。これは、恥ずかしいながら事実だと感じています。本の中ではそれらを「家族に失礼な表現」と表されており、具体例として「こんな口うるさい母親の家庭に生まれなくて僕はよかった」とか、「あんな頑固な男との結婚生活っていったんどんなだろうか」といった言葉がかつては飛びかっていた、と表現されています。表現の差こそあれ、これは残念ながらどこの現場でも起こっていることでしょう。

この章のリフレクティング・チームとは、そういった医療者と患者の垣根を取り外し、一緒に治療参画するという、今では当たり前に近いことの提唱です。

いくつかの実践例が記載されており、その効果として「治療者の断定を避けることが出来る」「一時的にせよ当事者から降りることが出来る」「メタ・ポジションの獲得」が示されています。治療者の断定とは、前出の通り「問題」を勝手に生み出すことであり、リフレクティング・チームによりそれを避けることが出来たとされています。「当事者から降りることが出来る」とは、あくまでも治療対象者という一元的な関係性から一度脱し、共に「問題」そのものについてどうするか医療者と議論をすることが出来るという、関係の変化そのものを指しています。そして「メタ・ポジションの獲得」とは、「問題」そのものをどうするか考えることそのものを指しています。

一緒に患者さんと治療についてどうするか話し合う、と今ではよく言われていますが、ナラティブの原則に従って行えば、さらに効果的にこれが行えます。

「あなたの問題をこれからどうやって解決しようか」から、「一緒に”幻聴さん”とどうやって付き合うか話し合おう」のほうが、ナラティブで建設的だと思いませんか。

 

7.8.9.10章について

最後の4章では今までの章の振り返りを行い、ナラティブについて再度考察を深めています。また、医療者の専門性とはどういったものかの再検討にも着手しています。

自然とナラティブである空間は、例えば断酒会であったりべてるの家であったりと、既に存在しています。そこでは「言いっぱなし」でOKという受容の世界があり、その存在自体が治療的です。

ケアをする/されるという関係、ケア/キュア、客観的/主観的、というような2項対立がここでは挙げられています。特に、生物モデル/構造主義モデルという対立がここで生まれています。

さて、この2項対立ですが、当ブログの過去記事で既に対立に対する回答を挙げていたのかなと思います。「中動態」です。

 

sakatie.hatenablog.com

 

これは私の解釈ですが、ナラティブであるということは、何かと対立するということではありません。意思と責任からの解脱だと考えています。

ナラティブという概念を理解し、ナラティブの態度をもって患者さんと関われば、自然と対話が濃厚になります。それはケアする/されるという対立はなくなり、共同参画という形になります。そしてその提供されているものはケア/キュアではなく、ナラティブそのものになります。そこには意思/責任という存在よりも、現象そのものの存在だけであり、中動態的な能動/中動の軸から考えれば相当に能動的になります。そこに強制性はなく、主体的な治療参画(という言葉も意思/責任のある従来の受動/能動的なんですが)になって行きます。

端的に言えば、双方がナラティブになれば、その人の人生の主軸をもう一度獲得することが出来る。自分の人生を再び歩むことが出来るということだと私は考えています。

 

ひとはそれぞれ自分の物語のなかで相手と出会っている。そして、その二つの物語の出会いが、2人の関係をかたちづくり、ケアの具体的なかたちをつくっている。二つの物語はかならず相互に影響しあう関係にある。ケアによって患者の物語だけが変わるということはありえない。患者の物語が変わるのだとすれば、援助者の物語も変わる。

したがって、わたしたちは、患者の物語に配慮するのと同様の重さで、援助者の物語に配慮しなくてはならない。「物語としてのケア」に目を向けなければならない。援助者はこれまでどのようなケアの物語を生きてきたのか、そしていま、どのようなケアの物語を生きようとしているのか、ナラティブ・アプローチはこのことを問いかけている。

 

私たちは、医療者ですが、客観的存在には生きていません。私たちも人であり、主観的存在です。絶対的な客観は存在できません。そのことに自覚をし、ナラティブであること。これが求められています。

ナラティブになるということは、自分の看護観について再考を重ねていくということです。どんなことをしたいのでしょうか、何を求めているのでしょうか。さて、どんな看護を展開していきましょうか。

 

精神科看護では特に、ナラティブな態度でいることは自然と出来ると思います。どんどん語り合いましょう。面白い本でした。

 

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

 

 

ピアサポートについて

 ピアサポートについての研修会に少しだけ参加しました。

 内容的には「この地域にはこんなピアサポートがありますよ」ということと、

 実際にピアサポーターとして活躍されている方々の講演会と言う形でした。

 

 ピアグループの簡単な一覧はCOMHBOのサイトにあります。

www.comhbo.net

 しかしながら一市町村まで網羅できていないのが事実。また、ピアは横のつながりで広がっていったりすることも多いので出来たり、消えたりしている様相です。

 例えば一地域で言えば、大阪は精神障害者バレーボールが強いのは知っていましたか?全国上位レベルだったりします。単にピアと言っても、お話をするだけではなく、スポーツで全国を目指したり、小説や文章で自分の才能を発揮したりと言う形だってあるんです。だって、同じ人間ですから。

 例えば当事者さんの作品と言えば以前の記事で熱く語りました

sakatie.hatenablog.com

のほか、文集的なものでは、

当事者が語る精神障害とのつきあい方 -「グッドラック!統合失調症」と言おう-
 

そのほか漫画であれば、  

人間仮免中

人間仮免中

 
みちくさ日記 (torch comics)

みちくさ日記 (torch comics)

 
うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

 

  様々にあります。

 

 紹介しきれないですね。また、機会を見つけてお伝えできればと思ってます。

 

 閑話休題

 ピアサポーターの講演会の部分が心に残ったので少し紹介します。

 「私たち精神障害当事者は、健常者のようにバリバリなんて働けません。健常者はフルコース料理が楽しめます。辛いことがんばってがんばって、最後にデザートを楽しむ。そういうような働き方が出来るんですね。対して私たちはワンプレートディッシュ。ちょっと仕事してはちょっと休んで、の繰り返し。そういうふうに自分のことをしっかりと知って、ゆとりをもって働くと言うことを目標にすると良いと思います。」

 

 と。含みのある分かりやすいたとえで、なるほどなあと膝を打ちました。また、

 「自助グループなんかに入ったら、また患者になってしまうんじゃないかと不安に思う人も出会いました。その気持ちはよく分かります。私も患者にはなりたくありません。ただ、自助グループが目指しているのは一人ぼっちにさせない。自殺をさせないと言うことなんです。だから、そうやって拒絶する人はまだ誘う段階じゃないのかなと思って、様子を見ています。隔離拘束をされた時に、ふと”井の中の蛙大海を知らず”と言葉が思い出されました。惨めな思いでした。退院後、その言葉の続きがあると知りました。”井の中の蛙大海を知らず。されど、空の高さを知る”と。私たちは空の高さをもはや知っています。自分ひとりだけというものの限界を知っています。機会が来た時には、自助グループに来て下さい。」

 なんと爽やかな誘い方でしょうか。

 

 私たち医療者では提供できるものに限りがありますし、医療一辺倒では彩が足りません。ぜひ、知り合いや精神保健福祉士、支援センター、医師などから近くのピアサポートについて情報を得て、一度どんなものか様子を見てみるのも良いのではないでしょうか。結構な角度からの支援の実際を体験することが出来ますよ。